Song of the birds

ヨネダコウ先生の「囀る鳥は羽ばたかない」二次創作サイトです。同好の士以外の方は回れ右でお願いします…

真夜中の鳥 4 (影山)


 時折、かなうことなら時間を巻き戻したい、と、強く願う。
 矢代と二人だけの、あの奇妙な逢瀬が、あんな形で始まらなかったなら。
 俺がケロイドフェチでなく、きちんとあいつの傷に向かい合えていたら。
 ──もしかしたら、未来は変わっていたのかもしれない、と。


 俺が保険当番の間中、矢代は放課後にふらりとやってきては、ただ黙って制服のシャツのボタンを外すことを続けた。
 あの、真夏でさえ、決して半袖は着ない、袖も捲らない、ボタンも第一ボタンまできっちり止めて外さない矢代が、だ。
 ただ言葉もなく、一方が肌を曝し、一方がそれに触れる、という関係は、どこか、母親と乳幼児のそれに似ている。
 回を重ねても、それ以上にもそれ以下にも発展しない。ただ、ルーティンとして繰り返されるだけだ。
 矢代も下は脱ごうとしなかったし、俺も、それ以上は見るつもりもなかった。
 もしかしたら、ズボンの下には、一層目を背けたくなるような傷があったのかもしれない。
 それでも、あいつがあの軽薄な笑顔の裏に抱え込んでいる怪我も、秘密も、詮索し理解することを、俺はもう諦めていた。
 自分には、その資格がない、と、わかっていた。


 あの最初の日の夜に、唐突に反応してしまった下半身は、それからも、時折不都合なことになりかけた。
 まぁ、健康な高校生男子だ。触って触られて、皮膚の感覚を刺激すれば、そういうこともある。
 俺だけでなく、矢代の方も、たまに その辺を制御できずに苦労しているようだった。
 この感情が、どこへ向かうのか。
 多分、二人とも、その感情の名前も、そもそも名前をつけるようなものなのかも、知らなかった。
 クラスに戻れば、むしろ、お互いに、他のクラスメイトよりも言葉は交わさない。それでも、ちらちらと、お互いを遠くから眺める機会は増えていたのじゃないか、と思う。
 この頃、俺の視界には、矢代の周りにだけ光が差していた。
 クラスの女子の中には、たしかに可愛い顔もいる。甘いリンスや制汗剤の残り香に、どきっとすることもある。
 それでも、一番綺麗なのは誰か、という問いには、どうしても、たった一人の名前しか浮かばなかった。

 そこに居るだけで性フェロモンを撒き散らす十七歳が三十人以上密集する中で、唯一、なんの匂いもしない。
 空気みたいな、風みたいな。
 その現象が、ただただ、綺麗に見えた。

 

 


 そんな感傷を抱いていても、やっていることは、間違いなく不健全の範疇に入ることだった。
 それでも、その関係からなにひとつ進展しなかったのは、わかっていたからだ。
 そちらに手を伸ばせば、この関係が終わる。……だから、考えない。
 矢代は相変わらず、ただ傷口を弄る・弄らせる、という行為になんの疑問も抱いていないようで、俺が夢中になってその疵痕を辿る姿を、軽蔑するふうでもなく、愉しそうに眺め下ろしていた。
 どんなに平静を装っても、触れば、興奮する。全身をつめたい血が駆け巡り、真冬のさなか、太陽を浴びた爬虫類みたいに、全ての感覚がクリアになる。
 もしクスリをやったら、こんな気分なのではないだろうか、と、思う。

 この頃、親父の体調は目に見えて悪化した。医者は入院を勧めたが、親父は頑として首を縦に振らなかった。
 入院したら、もう出てこられない、と知っていたのだろう。
 一時間診療したら二時間以上ベッドに横になるような有様で、病院は殆ど開店休業状態だったが、親父は閉院の看板も掲げなかった。
 あの母娘が来るかもしれない、と、思っていたのかもしれない。
 覚悟していたとはいえ、残された時間が少ないことに気を塞がれて、俺は授業に身が入らない日々が続いていた。
 ただ、矢代の傷を弄っているときだけは、そのことを忘れる。
 いつまでも慣れない興奮と、あの皮膚の感覚が何十倍にも増す感じがやめられなくて、俺は、何も言わない矢代の好意に甘え続けた。

 ──そう、あれは、好意だったのだ。
 それも、俺が全く想像もしていなかった種類の。

 


「──俺、バイなんだ」

 ぷくり、と膨れ上がったピンク色の、つやつやとした火傷痕を指先で抉るのに没頭していた俺は、その時、唐突に矢代が呟いたその言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
 バイ。
 つまり、セックスの相手が男でも構わない、ということだ。
 そこに思考が至るまでに数秒かかった。そのせいで、矢代は、俺がその言葉を知らなかった、と思ったようだった。

「あっ、バイってわかんねえ?」
「……いや……そうか」

 つまり、矢代が、俺と二人きりになって、こんなふうに肌を触らせてきた、というのは、男に触られることに対して、生理的な抵抗がなかったからだ。
 そうでなければ、こんなおかしな関係が、こんなにも長く続くわけがない。

 矢代は、相変わらず、週末が過ぎるごとに新しい傷を増やしていて、それを苦にしている様子も見えなかった。
 むしろ、俺がしつこく触るので、わざと傷を増やしてきているのではないか、と思うほどだった。
 ……毎夜、毎朝、それまでの出来事を全て忘れているのでなければ、到底こんなふうには振る舞えないだろう。
 馬鹿げた妄想だが、そうとしか思えないほど、俺に傷を触らせる矢代は楽しそうだった。
 自らの理解が及ばないからこそ、理由もなく惹かれる。
 そんな矢代が、自分のセクシュアリティについて言及したことに、俺は軽い失望を覚えた。

 (こいつも、誰かとセックスしたりするのか)

 ものすごく勝手な感傷であることはわかっている。その体を弄り倒して、時にはエレクトさせかかったりしているのは俺の手だ。
 それでも、俺の方には、そういう気はなかった。矢代は決して貧弱ではなかったが、力をこめて握れば粉々に砕けてしまいそうで、その体を組み敷いてどうこうするなど微塵も想像出来かったし、自分が組み敷かれるのも御免だった。
 矢代の方も、それを望んでいるわけではないのだろう。
 バイだというなら、その先へ進むこともできたはずなのに、そういう素振りは、あいつの振る舞いからは見えなかった。

 では、なぜ、今、それを……

「それだけじゃない」

 いきなり、耳を強い力で引っ張られて、その強い痛みに思考が強制終了した。その隙に、奔流のような矢代の告白が叩きつけられた。

「小学校3年から中学まで母親の再婚相手にセックスを強要されてからというもの、セックスのことが頭から離れない」

まるで人を挑発するようで、それでいて内緒話のように突如外耳孔に叩き込まれた言葉は、俺が想像していた何よりもはるかに突飛で、常軌を逸していた。

 ……小学校三年から?
 頭から離れない?
 ……セックスのことが?

「どうだっ」

 本気なのか、からかわれているのか。
 ……冗談にしては、たちが悪すぎる。

 その姿は、本気で自分の身に降りかかった凶事について、とても真剣に打ち明けているようには見えなかった。
 俺の脳味噌は、その言葉の中身の深刻さと、矢代の表情から受ける印象の大きすぎる齟齬を処理し切れずに、なすすべもなく硬直した。

 じゃあ、そもそも、この身体中の傷は一体なんなんだ?
 中学まで、ということは、その先は、義父からの性虐待が、性行為を伴わない暴力に変わった、ということなのか?
 それとも、この傷と、バイであるという告白の間には、なんの繋がりもないのか?

「……そうか」

 

 そのとき、なぜ自分が、その言葉を呟いたのか、よくわからない。
 いや、そもそも、自分で何かを口にした、という意識はなかった。
 ただ、どうしていいかわからなくて、矢代の顔から視線を外した。
 気がついたら、口が勝手にそう言葉を発していて、その瞬間、矢代が小さく息をのんだのがわかった。
 ……いや、それも違う。音は聞こえなかった。ただ、気配が、息をのんだのを感じただけだ。
 空手なんてものをやっているお陰で、そういう気の流れみたいなものが、俺にはわかる。
 俺の言葉の直後に、あいつの内部で、なにかの感情がフラッシュのように瞬き、──そして、弱々しく消えていったのを感じた。
 その瞬間、全身の毛穴が震えて開くような、冷たい衝撃が全身を駆け抜けた。


 ……あれは、命の光が消えた瞬間だ。
 数時間しか生きられない蜉蝣を、俺は、この手で叩き落として、殺したのだ。


 俺は、矢代の顔を見られなかった。
 無理にでも、見ておけば、最後の足掻きで、なにか違う行動を起こせたのかもしれない。
 あいつの、未来を変えることのできる、何か。
 それでも、ただ顔を上げるのが怖くて、俺はそれ以上何も言えないまま、視聴覚室を出ていくあいつの後ろ姿を見送った。

 


 
 『セックスのことが 頭から 離れない』

 家に帰って、食事もそこそこに自室に篭って、その一言について考えつづけた。
 あれは、矢代の精一杯の、救いを求める声であり、理解と共感を求める祈りでもあり、正しい相手に向ければ、報われて然るべき願いだったのだろう。
 何故それを、それが可能な相手に向けなかったのか──俺はアイツではないから、わからない。
 ただ、しばらくの間、天井に走る格子状の竿縁を見つめていて、唐突に気づいた。
 ……あの酷い緊縛痕は、そういうプレイの結果なのじゃないか?
 なぜならば、矢代の体には、たしかにそういう目で見れば、愛咬の痕とも見える傷も多く刻まれていたからだ。

 セックスの相手を縛り、痛めつけて快楽を得る人間がいることを、俺は知っている。
 それを喜ぶ人間は実際にはいない、と思ってきたが、知識として、痛めつけられると性的興奮を感じる人間がいることも知っている。
 もしそうなら──
 あいつが、セックスの相手に傷つけられることを、自ら望んでいるのだとしたら。

 (俺は、あいつに、火傷の傷を増やせ、と望むだろうか)

 その想像は、ぞっとするほど自然に俺の思考に滑り込んできて、そのまま体に吸収されてしまったように感じた。


 ──もしも、あいつが。
 俺になにがしかの感情を抱いているのだとしても、決して、応えてはならない。


 矢代に向かう感情は、あまりにも複雑で、整理されていなくて、俺には何がなんだかわからなかった。
 ただ、なにひとつ分からない中でも、たったひとつだけ、わかっていることがあった。
 ……あいつは、家族の愛情を知らない。
 そんなあいつが、家族以外の誰かに、もし愛情を乞うことがあったなら。
 その愛情は、無私の愛でなくてはならない。
 ……その相手から向けられる執着が、異常なフェティシズムであって良いはずがない。


 握り込んだ手のひらに、強く爪の形が刻まれているのを確認した直後、お袋の悲鳴が、夜更けの静寂を打ち破った。


「莞爾! 莞爾! お父さんが……お父さんが!!」

 

真夜中の鳥 3(影山)


「これ、やる。……腕、見えてんぞ」

 すっかり月曜朝の恒例行事となった腕の痣の確認と絆創膏の支給を済ませると、矢代は一瞬口をぽかんと開けて、それからわざとらしさ全開の軽薄な笑いを浮かべた。

「わーっ、ばんそーこーだーっ! しかも今日は3つも! うれしーなーっ、どこに貼ろー、わくわくっ!」

 こいつが、こういう物言いで会話に参加するようになったのは、いつごろからだったろう。
 この学校に入学した当時は、そんな軽口もほとんど叩かなかった。
 でも、それではかえって目立つ、ということに、そのうち気づいたらしい。
 一本どころかゴッソリ頭のネジが抜けていると思われても仕方のない態度を、こいつは、クラスメイトの不安げな表情を見ても止めなかった。
 これで成績も底辺だったら、ただのバカ、で済むんだが。
 俺だけでなく、皆も多分わかっている。
 こいつが未だに、誰にも見せない何かを背後に隠していて、それは卒業するまで、決して明かされることはないのだろう、ということを。

 袖口から覗いていた鬱血痕は、今日は三重にも重なっていて、一部皮膚が裂けて瘡蓋になっていた。
 隠してはいるが、あれは相当腫れているだろう。
 勿論、絆創膏でどうにかなる傷じゃない。でも、だからといって、ガーゼや湿布、包帯まで渡すというわけにもいかない。
 俺の役目は……ただ、お前の怪我に気づいている、ということを伝えるだけだ。
 
 お前のことを、気にかけている人間がいる。
 お前の怪我を、いつでも治療する準備をしている奴がいる。

 ……こんなことで、本当に、何かが変わるんだろうか?

 

 選んだはいいが、自分の選択の正しさに自信を持てないまま、いっそもう1段階手首を痛めてココに来れば手当ができるのに、と密かに思いつつ保健当番をこなしていたある放課後。
 あいつが、思いもよらない理由で、保健室にやってきた。

「あれっ、保健室の先生は──?」

 ノックもせずに開かれた扉の向こうに、片腕を力なく下げた矢代が立っていた。
 ……肩関節脱臼だ。
 一体、なにをやらかした?

「出張だそうだ」
「なんでいんの?」
「保健委員」

 間違ったことは言ってない。
 ……もしかしたら矢代が来るかも、という1%の期待にかけて、今週の当番を変わってもらったことを、告げる気も、勿論ない。

「あ──っ! そうだ、お前だ! 家が開業医だからって理由で保健委員押し付けられてたの。 おぼっちゃま!」

 矢代は、またあの軽薄な声で思い切り叫んで、その後、少し痛そうに眉を顰めた。
 バカ、動かすからだ。
 てか、人を指差すな、人を!

「どうした?」
「ん? あ、そうだった。お前、脱臼直せる? うまくはまんなくてさ」

 典型的反復性肩関節脱臼だ。そもそも、初回だったらこんなに動けるわけがない。
 あまりに繰り返すと、もはやあまり痛みも感じなくなるが、眉を顰めたところを見ると、筋か腱が攣っているのだろう。それなりに痛いはずだ。

「素人が弄るもんじゃねえんだがな……──座れよ」

 一応空手部に所属しているので、実はこの手の処置は日常茶飯だった。ただ、どういう状況で外れたのかよくわからないし、筋を痛めているかもしれないので、俺が手を出すべきじゃないのは重々わかっていた。

 わかってはいた、が。

「──────っ………」

 昼間の明るい窓から差し込む光が逆光になって、その暗がりの中で、矢代の少し色素の薄い眉が強くしなったのを見た。
 右手で触れた肩は燃えるように熱く、それに全ての熱を奪われたかのように、その先の腕はひんやりと冷たくて、血の通わない陶器の人形を思わせた。
 それを、無理矢理に捉えて、逃げられないようにしておいて、力を込めて押し込む。
 そのゴリっとした骨の軋む感触に、腹の奥底で、何かが疼いた。
 噛み殺しきれなかった、つめた息が漏れ、いつも軽薄な笑いを浮かべている唇が、少し青ざめて、小刻みに震えているのを見た。
 こんなに近くまで寄らなければ、きっと見逃していただろう。

 俺は、今、こいつと、体ひとつ分の距離にいる。
 ……たった、それだけのために。

「大丈夫か? 痛みは?」

 気遣っているふりだけは立派な自分の言葉が、舌の奥で苦い。
 大丈夫か、じゃねぇだろ。
 こういうときは、動かさないように保定して、即整形外科か整骨院だ。

「……大丈夫。サンキュ、たぶんハマった」
「筋痛めてるかもしんねえから、必ず病院行けよ」

 言いながら、コイツは絶対に病院になんか行かないだろう、と知っていた。
 あんな緊縛痕、目にしてしまえば、医者ならまずイジメか家庭内暴力を疑う。児相に連絡するかもしれない。
 なによりも、誰の目にもとまらないように、誰にも本心を見せないように生きているコイツが、誰かに自分の疵を見せる選択をするとは、到底思えなかった。

「いや──っっ、悪ィ悪ィ。助かったよっ、カンチくん」
「莞爾」
「かんじくん」

 どうせ病院に行く気がないなら、俺が医者の真似事をして肩を嵌め直したことにも、意味があるのかもしれない。
 矢代は「助かった」と言う。その言葉に、偽りはないんだろう。
 それなら………

「しっかし、壁にぶつかっただけで脱臼とかあんだな──っ、びっくり!」

 脱臼は繰り返すと、クシャミ程度の衝撃でも起きるようになる。
 そんなに頻繁に肩が抜けるほど、酷い暴力を繰り返し受けているのか。
 そう思った瞬間に、自分でもまったく考えていなかった一言を、自分の口が語るのを聞いた。

「傷、見せろ」
「……は?」
「手当てしてやるから。他の傷」

 ──自分からは、踏み込まないんじゃなかったのか。
 ウカツな自分に苛立ちながら、一度その言葉を口にしてしまえば、それ以外に道はなかったようにも思えて、俺は仁王立ちのまま矢代を見下ろした。

「いやいや、いらねーし」

 矢代は、どこか困ったような薄ら笑いを浮かべて手を振った。
 ああ、お前はそういうだろうよ。
 だったら、肩が外れたぐらいで、人頼ってんじゃねぇよ。
 そんな自分の勝手な感情にもムカついて、余計に、引けなくなった。

「脱げ」
「手当てって傷じゃないって」
「見せろ」

 矢代は、今度は、はっきりと「うさんくさい」と思っているのを隠しもしないうろんな眼差しで黙り込んだ。
 この機会を逃したら、多分二度と、真実を知る機会は巡ってこないだろう。
 知ったからといってどうにもならない。でも、今逃がせば、きっと、のちのち見過ごしたことを後悔する。
 そう自分に言い訳をつけて、空いているベッドのカーテンをひいた。

「こっちへ、来い」

 多分、他の奴には見られたくない傷なんだろう。いつ誰が入ってくるかもわからない保健室で脱ぐのは難しかろうと配慮してやったのに、コイツは何を勘違いしたのか、人をケダモノかなにかを見るような眼差しで見上げてきた。
 バカ、そういう意味じゃねぇ!!
 
「ほら。脱げよ」

 そういうノリを期待してるなら、言ってやる。
 半ばヤケクソで開いた口が、──そのまま、止まった。


 ……緊縛痕。
 打撲痕。擦過痕。切創。咬傷。
 ──そして、夥しい数の、熱傷の痕跡。

 その瞬間に、世界から音が消えた。

 


 
 吐き気がするような、酷い虐待の痕跡に、何も感じなかったわけじゃない。
 縛られて、身動きができないようにされて、殴られ、蹴られ、切り付けられ。
 引き回され、煙草の火を押し付けられた痕跡が、腹が立つほど明瞭に、衣服に隠される部分にだけ散っていた。
 どうして、そんなにヘラヘラと笑っていられるんだ。
 なぜ、お前は、誰にも助けを求めない?
 まったくお門違いな怒りを、一番向けてはならない人間に覚えている自分と、それを、どこか冷静に眺めている自分。

 ……いや、本当は、そんなことも、どうでもよかったんだろう。
 艶かしい肉色に盛り上がった痕跡に、視線どころか、意識の全てを縫い付けられて、まったく動かせなくなった。
 ……傷口から垂れ流す蜜に、不用心に近づいたら、虫ピンで釘付けにされた。
 奇妙に静かな世界の中で、一瞬、脳裏に、花の蜜に溺れるコガネムシの姿が浮かんだ。


「……あのさあ、影山ぁ」


 どのくらい意識を飛ばしていたのか、自分でもわからない。
 その一言で急速に世界に音が戻ってきて、その瞬間に、自分の心臓が波打つ音が耳元で唸りを上げた。
 自分は何をした?
 傷を治療する、という口実で、こいつをベッドのカーテンの中に引き込んで。
 服を脱げ、と命令して、……消毒用脱脂綿を摘むピンセットにすら、手を伸ばさずに。
 視界の中に、薄いピンクの皮膚に包まれた突起を執拗に弄る指が──

 心臓は暴走しているのに、そのくせ全身から血の気は引いて、体中の骨も肉もどこかへ消えて、薄っぺらい皮膚だけが、固まって罅割れたプラスチックのように体を支えている。
 決して誰にも知られてはならない、と、親にも友人にもずっと隠してきたモノを、こんなにも簡単に晒してしまった。
 矢代の呆れた声を聞いても、その事実を実感できないまま、口だけが、意味のない一言を吐いた。
 
「わっ悪いっ……つい」

 つい、って何だ。
 俺は、こいつの心配をしていたんじゃなかったのか?

「傷とか、好きなのか?」

 矢代は、他人事なら笑うしかないほど、ド直球にそう尋ねてきた。
 この状況をどう言い訳して誤魔化すか、それだけしか考えていなかった俺は、その悪気のないたった一言で、引導を渡されたのを知った。

「んー?」
「……傷とゆうか……火傷跡とか……ケロイドが……」

 矢代の傷の理由はなんなのか、とか、治療が必要なんじゃないのか、とか。
 ……結局、そんなご立派な口実は全てウソッパチで、俺はただ、傷を隠しているクラスメイトの秘密を無理矢理に暴いて、その傷を間近で見て、触りたいだけの変態だった。

 ……俺は、お袋を救った親父とは違う。
 だから、最初から、こんな面倒事に首を突っ込むべきではなかったのだ。

「なーんだー、そういうことか~! 早く言いたまえよっ」

 バカみたいに明るい矢代の声が、顔を上げられないまま固まった頭にぶつかって弾けた。
 それが、人をバカにするような声色だったなら、俺はその日の太陽が完全に西の空に沈んでも、椅子に座り込んだまま動けなかっただろう。
 ──でもそれは、多分、なんの含みもなく、面白がっているだけの声で。

「……嫌、じゃないのか」
「嫌? なんで?」
「……普通、嫌がるもんだろう」
「……そーなの?」

 固まった蝋人形が溶けるような、緩慢な動きしかできない首を上に傾けると、そこには、心底不思議そうな顔の矢代がいた。
 その視界の端に、また薄桃色の艶かしく歪んだ傷が映っていて、その背の向こうに、カーテンの隙間から溢れた、白い光の網が広がっている。
 その姿が眩しくて、どこか、人間離れしていて、不意に、俺は自分が何を見ているのかを悟った。

 ──ああ、そうか。
 コイツは、蜉蝣なんだ。

 その言葉は、しんしんと、心の奥底に降り積もって溶けた。

 ヒトの姿をして、人間に紛れて暮らしてはいるが、毎夜、日が沈むと共に消えて、また朝日と共に生まれる命。
 だから、こんなに手酷い虐待を受けても、笑っていられるのだ。
 ……だから、俺の、この手がしたことにも、何も疑問を抱かないのだ。

 


 気がつけば、俺は、矢鱈に上機嫌な矢代の、「明日また来る」という言葉に頷いていた。
 矢代が保健室を去ってから、二時間以上も過ぎて、俺はようやく、自分があの傷について何も詮索しなかったことに気づいた。
 ……見てしまえば、訊かずにはいられないだろう、と思っていた。
 その結果、多分、俺は矢代から避けられるようになるのだろう、と。

 明日また来る、ということは、……また、あの傷を触らせてくれる、ということなのだろうか?

 

 その想像に、腹の底から血が湧き上がるような興奮を覚えて。
 俺は人影の消えた校舎の、暗い男子トイレの個室に駆け込んだ。
 

ヤシノオトシゴとメキノオトシゴ

 


1. プロローグ

 

あたたかなおひさまが降り注ぐ、ちいさな南の島の、ちいさな珊瑚礁に、手のひらより少し小さいくらいの、色白のタツノオトシゴが棲んでいました。
そのタツノオトシゴは、名前をヤシノオトシゴといいました。
ヤシノオトシゴは、ちいさなしっぽを赤い珊瑚の小枝にまきつけて、来る日も来る日も、蒼い水のなかで銀色のお腹をひからせる魚たちや、ふうわりと漂って流れていくクラゲたちを眺めているのでした。
近くの珊瑚の木には、今年生まれたばかりの若いカップルが住んでいて、ふたりは朝も、昼も、夜も、お互いのしっぽをぎゅっとからませて水面まで駆け上がる、恋のダンスを繰り返しておりました。
きっと、もうすぐ、彼らには子供が生まれるのでしょう。
ヤシノオトシゴは、それを横目に見ながら、ひとりつぶやくのでした。

「あーあ。おれにも、あんな相手がいたらなぁ」

タツノオトシゴは、だれもが、生まれた年に出会った異性と恋におち、一生をその相手と添い遂げるのです。
しかし、ヤシノオトシゴがすきになった相手は、同じオスのタツノオトシゴ、カゲノオトシゴだったのでした。
カゲノオトシゴは、はじめの頃こそ、ヤシノオトシゴの尻尾に自分の尻尾をからませ、体に口吻をねちっこく押し付けたりしていたのですが、ある日、ヤシノオトシゴが「おれは、オスもすきなんだ」と打ち明けると、「俺はおまえが大事だ 親友として」と告げて、それ以来、ぱったりと近づかなくなってしまったのでした。

親友、ねぇ……。

ヤシノオトシゴは、自分がオスだから、カゲノオトシゴとは添い遂げられないのだと、夜中の暗い海から水面の月を見上げて、ひっそりと涙を流しました。
自分の姿をながめてみれば、おなかにできた小さな育児嚢は、オスとしてもたいして魅力がありません。
タツノオトシゴのオスは、メスから卵を受け取って、子どもが生まれるまでずっと自分のおなかの袋で育てるのですから、育児嚢が大きい方が、オスとして魅力的なのです。

つぎの年の春には、カゲノオトシゴは、その年生まれた若いオスと一緒に、もっと北の獲物がたくさんある海へと引っ越してしまいました。
その若いオスは、ヤシノオトシゴよりまつ毛がながくて、なによりも性格がとても明るい少年でした。
ヤシノオトシゴは、自分がオスだったからだめだったのではなく、自分に魅力がないからだめだったのだ、と思い知らされて、もう自分と添い遂げてくれる人なんかいないだろう、と、婚活もやめてしまいました。

捨てる神あれば拾う神あり。
カゲノオトシゴとその若いオスが旅立った年の秋、いっぴきの若いメスが、親潮にながされてやってきました。
そのメスは、すぐにパートナー探しを始めたのですが、今年生まれたタツノオトシゴは、すでにみな相手を見つけてしまっています。
そこで、まだ独り身でいたヤシノオトシゴに、
「随分袋が小さいわねぇ。でも、ほかにいないし、アンタでも、いないよりはましね」
とつぶやいて、結婚を申し込んだのでした。
ヤシノオトシゴは、生まれて初めて恋のダンスを踊り、卵を受け取りました。

これで、ようやく、卵を孵せる。
こんなおれでも、生まれてきてよかったんだ。

ヤシノオトシゴは、めでたくリア充となり、とても幸せでした。
ところが。
ヤシノオトシゴが、おなかの子供たちに懐メロをうたっていると、とつぜん、珊瑚礁の海に、荒々しい人間たちがやってきたのです。
そして、船の上から大きな網を海の底に投げかけ、恋を語らっていたタツノオトシゴたちを、根こそぎさらってしまったのでした。

体のちいさいヤシノオトシゴは、その網からこぼれ落ち、つがいになったメスとはなればなれになってしまいました。
ヤシノオトシゴは、そのメスを助けようと、背びれをいっしょうけんめいふるわせました。
しかし、海の中で姿勢をたもつのがせいいっぱいの小さな背びれは、ちっともヤシノオトシゴの体を前に進めてくれません。

どんなにいっしょうけんめい泳いでも、船の姿はとおざかるばかり。
そのうちに、船がぶるん! とおおきなスクリューを回し始めると、ちいさなヤシノオトシゴの体は、水の勢いにふきとばされ、ぐるんぐるんと回転して、もみくちゃにされてしまいました。

すっかり目をまわしたヤシノオトシゴは、しばらくのあいだ、岩の隙間に落ちて気を失っていました。
はっと気づくと、あたりはもう陽も落ちかかり、しんとしています。
岩のすきまから顔をのぞかせてみれば、いつもヤシノオトシゴがつかまっていた珊瑚の枝はへし折られ、周りにたくさんいた仲間たちの姿もありません。
ヤシノオトシゴは、おそるおそる、岩陰から這い出しました。
そして、ふと自分のからだを見下ろして、あっ、と声をあげました。

おなかの、袋が!

もうあと数日で子供がうまれるはずだった、ぱんぱんに膨らんだ育児嚢が、今はもう、真っ平になっていました。
ヤシノオトシゴがまいにち歌をきかせて育てた子供たちは、波にもまれてもみくちゃにされる間に、すべておなかの袋から流れ出てしまっていたのです。
子供たちは、つめたい水温にさらされて、きっともう死んでしまったでしょう。
ヤシノオトシゴのおおきな瞳に、涙がうかびました。

おれの袋が、ちいさいからいけないんだ。
おれは、妻だけでなく、子供たちもまもれなかった、だめなオスなんだ。

ヤシノオトシゴは、すっかり気落ちしてしまいました。
荒らされた海では、パートナーを連れ去られたタツノオトシゴが他にもたくさん、呆然として、海を見上げていました。
パートナーをうしなったタツノオトシゴは、なかなか次の相手をみつけられないのです。
だって、いつか、また、相手が帰ってくるかもしれないから……

それでも、秋がおわり、冬がすぎ、春になるころには、あきらめて他の相手とつがう者もあらわれはじめました。
ヤシノオトシゴにも、同じように相手をうしなった数匹のメスから、声がかかりました。
しかし、ヤシノオトシゴは、こんな自分なんかに、まともなレンアイなんてできるわけがねぇ、と、すべてそれを断ってしまったのです。
そして、それからは、だれとも話すことなく、ただお隣の珊瑚の枝に引っ越してきたタツノオトシゴのカップルの恋のダンスを見ながら、妄想だけしてきもちよくなりつつ、ひっそりと暮らすことにしたのでした。

そうして、3年目の夏がやってきたのでした。

 

2. 2度目の恋


あたたかな陽射しがふりそそぐ、ある日。
ヤシノオトシゴが、いつものように、珊瑚の枝にしっぽをからませて水面を見上げていると、また聞き覚えのある船のスクリューの音がして、人間たちがやってきました。

たいへんだ。みんな、さらわれてしまう!

ヤシノオトシゴは、おおいそぎで、今日も恋のダンスを踊っている若いカップルに「にげろ!」と声をかけると、自分も岩陰のせまい隙間にもぐりこんで、じっと息をころしました。
また、珊瑚の枝も、海藻の林も、めちゃくちゃにされてしまうのだろうか。
しかし、ヤシノオトシゴの心配をよそに、人間たちは狼藉をはたらく様子がありません。
しばらくの間、ダイバーたちが海底をしらべて、珊瑚や海藻を採取したり、写真をとったりしていましたが、さいごに何箇所かで海水を流し込むと、そのままいなくなってしまいました。

なんだ。また、タツノオトシゴさらいがきたわけじゃなかったのか。

ヤシノオトシゴは、すっかり海から人の気配がなくなると、ひょっこりと岩陰から顔を出しました。
チャームポイントの、頭の突起から長くのびたサラサラの皮片に、さやさやと海流を感じます。
魚たちも、なにごともなかったように泳いでいる模様です。
もうだいじょうぶだろうか。
そうして、ヤシノオトシゴが、はんぶんくらい体を岩陰からのぞかせたとき。
とつぜん、後ろから、ひくい声がかかりました。

「こんにちは。どうか、おれと、結婚してくれませんか」

ヤシノオトシゴは、とてもびっくりして、うしろを振り返ろうとしました。
しかし、まだ体のはんぶんは岩陰にかくれていたので、からだをひねることができません。
それが、まるで、恥じらっているように見えたのでしょうか。
声の主は、ちいさく「なんてかわいい人なんだ……」とつぶやくと、ヤシノオトシゴの前までゆっくりと泳いでまわり、ヤシノオトシゴのちいさな口吻の先に、それよりもひとまわり大きい口吻をちかづけたのでした。

「きれいだ……こんなにきれいな人は、初めてみました。どうか、おれと結婚してください」

ヤシノオトシゴは、自分の前にたちはだかるそのタツノオトシゴの姿に、目をみはりました。

……でかっ‼︎

ヤシノオトシゴよりひとまわり、いや、ふたまわりほども大きな、オスのタツノオトシゴです。
こんなやつ、この辺にいただろうか?
ヤシノオトシゴは、あまりに驚いたので、もっと大事なことにきづきませんでした。
つまり、このタツノオトシゴは、どうやらヤシノオトシゴの性別をかんちがいしているらしい、ということに。

「……オマエ、だれ? つか、何食ったらそんなデカくなんの?」
「あ、すみません。おれは、メキノオトシゴ、長いので皆おれのことを百目鬼と呼んでます。今日、この海にひっこしてきました」
「へえ……新顔……」

ヤシノオトシゴは、まじまじと、メキノオトシゴの全身を眺めました。
高く持ち上がったツノに、すこし浅黒い体、そして、りっぱな大きな育児嚢をもっています。
しかも、メキノオトシゴは、その育児嚢をヤシノオトシゴに見せつけるように、いっぱいに海水をためこんで、ぱんぱんにふくらませているのでした。
オスのタツノオトシゴは、そうやって、気に入ったメスにアピールをするのです。

「……いいカラダしてんなぁ……」
「おれ、あなたの子供をかならず守ります。だから、おれと」
「オマエさぁ。プロポーズの前に名前きけよ」
「あっ! すみません! あなたの名前を教えてください」

なんだかなー。
ヤシノオトシゴは、はぁ、と小さなため息を透き通った口吻からはきだすと、言ったのでした。
「おれはヤシノオトシゴ。長いから、皆矢代、ってよんでる。でもって、オマエの質問への返事は、ノーだ」
「えっ……どうしてですか!」
「どうしてもこうしてもねぇよ。俺はオスだっつーの」
「そんな……! こんなに綺麗なのに⁈」
「ご愁傷様。あと、この辺のメスは、もうみんな、ダンナもちだから。……オマエ、なんでこんなところに引っ越してきたの?」

タツノオトシゴは、体の構造上、早く泳げません。だから、遠くまでいくには、海流に乗って流されるしか、方法がないのです。
体のちいさな子供のうちは、そうやって海を旅しますが、こんなに大きく育ってから引っ越しをする例はあまりありません。
まあ、カゲノオトシゴのように、もっとよい餌場を求めて移動する者もいないわけではありませんが……

「おれ、水槽で生まれたんです。人間たちが、ゼツメツキグシュがどうの、といっていて、おれのほかにも、たくさん同い年がいました。おれの親は、オオウミウマの家系で、人間が漢方薬やお守りにするためにたくさんとりすぎて数が減ってしまったらしくて……。一生、水槽で暮らすんだと思っていましたが、急に捕まえられて、この海に流されました」
「ああ、人間のやること、わっかんねぇなー。まぁ、デカくなるまで育ててから放流すりゃ、魚に食われる確率は減るけど……こんな、相手もいねぇところに流したって、繁殖できねぇだろ」
「いえ、でも、おれは、ここに流されてよかったです。あなたに、会えたから」

メキノオトシゴは、深い海の底の色をした瞳で、じっとヤシノオトシゴをみつめたのでした。

「ひと目みたときから、あなたが、どうしようもなく好きになってしまいました。どうか、おれと、結婚してください」
「はぁ⁈ 何いってんのオマエ?」
「なにもいりません。そばにいるだけでいいです。どうか、あなたのそばに」
「却下だ! オマエ、絶滅危惧種なんだろ? お前みたいな立派なオスが、子供つくんなくてどうするよ⁈」
「だって、どちらにしても、俺の相手になってくれるメスはここにはいないんでしょう?」

ずきん。
ヤシノオトシゴは、胸がはりさけそうに痛んだのを感じました。
そうだ。こいつは、今はつがいになるメスがいないから、とりあえず当分オトコでもいいか、と思っているだけなんだ。

その考えは、自分でも意外なほど、ヤシノオトシゴの心を沈ませました。
ヤシノオトシゴは、自分よりふたまわりも大きいメキノオトシゴの体を睨み上げると、つめたく言い放ったのでした。

「おれは別に、おまえのことは好きじゃねぇ。そもそも、そのバカでかい育児嚢見せつけてくんのもムカツクしな」
「矢代さん……」
「ま、そういうわけだから。出ていけよ。ここはおれの家だ。……1ヶ月もすりゃ、今年生まれのメスが育ってくるし、それまで待てば、オマエみたいなりっぱなオスは、いくらでも引く手あまたになんだろ」

 


その日の夜。
ヤシノオトシゴは、いつものように尻尾を珊瑚の枝にからませて、暗い夜の海を見上げていました。
大きな体で、すっかり気落ちして、崖の下の方に泳いでいったメキノオトシゴの後ろ姿が、いつまでも脳裏からはなれなくて。
ずっと眠れずにいたのです。

おまえは、おれが、オトコしか好きになれない、って、知らなかったんだろうなぁ。

ほんとうは。
あのメキノオトシゴの深い色の瞳に見つめられたときから、ヤシノオトシゴの心は、すっかりメキノオトシゴに奪われてしまっていたのでした。
不器用な、それでも熱意だけはあるその瞳は、どことなく、カゲノオトシゴに似ていて……。
でも、あいつは、絶滅危惧種だし。
そもそも、あんなに立派な育児嚢をもったオスに、自分の方が妊娠したいだなんて、言えるわけがありません。

ヤシノオトシゴは、最初の卵を海に流してしまってから、一度でいい、自分のおなかで卵を孵したい、と、ずっと思い続けてきました。
でも、ヤシノオトシゴのちいさな育児嚢を、メスたちは残念そうに見つめるのです。
「こんなにきれいな顔をしてるんだから、アンタ、メスだったらよかったのにね」
唯一、ヤシノオトシゴに卵をくれたメスも、そういっていたのでした。
でも、どれほど外見がよかろうとも、ヤシノオトシゴはオスなのです。
まいにち、子供たちに歌をうたってきかせて、丈夫な子供にそだてたい。
その切望があるのに、心から好きになるのは、自分より立派なオスばかりで……。

なんか、いろいろ間違って、生まれてきたんだろうなぁ……

ヤシノオトシゴは、もう、どうでもいいや、という気分になっていました。
おとなりの若いカップルの恋のダンスを覗き見しても、もう楽しくはなれません。
どこか、遠い海に、いってしまおうか。
ふと、ヤシノオトシゴは、そんなことを考えました。
いま、この珊瑚の枝に絡ませている尻尾をほどけば、このちいさな体は、潮にのって、遠いどこかの海へ流れていくでしょう。
それは、隠れる場所もなく、十中八九、大きな魚に食べられてしまう、とても危険な旅です。
しかも、夜に流されれば、捕まる珊瑚の枝もみつけられず、とてもタツノオトシゴが住めないような深い海にまで、引き込まれてしまうかもしれない。

それでも、いいか。

ヤシノオトシゴは、もう、メキノオトシゴの姿を思い出したくなくて、ちいさなため息をつきました。
ここを離れてしまえば、あの姿を見ることもないでしょう。
そのあとは、もう、どうなったっていい。
ヤシノオトシゴが、珊瑚の枝に絡めたしっぽを解こうとした、その時でした。

「矢代さん!」

暗闇のなかから、あの昼間もきいた低い声が、ヤシノオトシゴの名前を呼ぶのが聞こえたのです。

「逃げないでください、矢代さん……」
「おまえ……どうして……」
「あなたと別れてから、あなたについてもっと知りたいと思って、ほかのひとたちにあなたについての話をきいてまわったんです。それで、あなたが、最初に好きになったのは、同じ年に生まれたオスだったと知りました」

メキノオトシゴは、ヤシノオトシゴが尻尾をからめている珊瑚の枝に近づくと、「おれもちょっと、この枝借りていいですか」と呟いて、ヤシノオトシゴがいいともなんともいう前に、ヤシノオトシゴの目の前におちついてしまったのでした。

「……だったら、どうなんだよ。おれがオトコしか好きになれないから、おまえに望みがある、とでも?」
「それは、わかりません。でも、昼間のことを謝りたくて……。おれは、ゼツメツキグシュだけど、今すぐにつがえるメスはいない、だから、あなたのそばにいられない理由にはならない、と言いたかったんです。でも、それは、メスがみつかったらあなたを捨てるとか、そういうことじゃなくて」
「何言い訳してんの? それがアタリマエだろ。おまえみたいな立派なオスが、おれみたいな貧弱なオスと遊んでていいわけがねぇだろが」

ヤシノオトシゴは、メキノオトシゴの熱い吐息から逃げるように、そっと顔を背けました。
だから、この場所を離れたかったのに。
せっかく、今ならまだ、諦められると思ったのに。

「貧弱? あなたは、自分のことを、そんなふうに思っているのですか?」
「思ってるも何もねぇだろ。オマエ、自分の育児嚢みてみろよ? さぞかし、たくさんの卵を抱えて、立派に育てられるんだろうなぁ。それにひきかえ、おれは、たった20個の卵も守れなかった出来損ないだ。だから、メスもおれなんかには見向きもしない」
「それは嘘です。あなたに結婚を申し込んだけど、断られた、という話を数人からききました。あなたは、ずっと誰かを思っているようだった、と……。 最初に好きになったオスのことが、忘れられないのではありませんか?」
「それは………」

そういって、ヤシノオトシゴは口ごもり、また下を向きました。
カゲノオトシゴのことは、ずっと心の中にありました。
でも、その姿を思い出しても、もうそんなに胸が痛まないことに、今、気づいたのです。

きっと、こいつと出会ってしまったからだ。
ヤシノオトシゴは、月明かりに照らされて、じっとこちらを見つめているメキノオトシゴを見上げました。

見れば見るほど、いい男だなぁ……。
そんな立派なオスにばっか惚れるなんて、おれはほんとに、どうしようもねぇな。

「オマエさ、」

ヤシノオトシゴは、もうどうなってもいいや、と、ついに、隠していた思いを口にしてしまいました。

「おれに、タマゴくれる? 俺は、オマエのヨメさんになるんじゃなくて、俺の方が卵抱えたいんだけど?」
「矢代さん……」
「な? 無理だろ? おまえもオスだもんな? しょうがねぇじゃん。惚れるのは男ばっかだけど、おれはオスだ。オマエのために卵も産んでやれねぇし、俺にも卵そだてたい願望がある。どっちも、どんなに願っても叶わねぇ望みだ。……そーゆー不毛なの、やめとこうぜ」

さあ、ここまで言えば、さすがのコイツも諦めるだろ。

ヤシノオトシゴは、もう話はすんだとばかりに、 そっぽを向いて、たぬき寝入りを決め込もうとしました。
ところが。
突然、メキノオトシゴが、ヤシノオトシゴのからだに自分のしっぽを絡み付けて、興奮した口調で話しかけてきたのです。

「わかりました……! では、おれが、あなたのために卵を用意します!」
「はぁ?! ナニいってんのオマエ?! 他のメスから奪ってくるとか?! あ、それとも、その辺のメスにオマエの袋に卵産ませて、それをオレに分けようとか、そういう話?!」

ヤシノオトシゴは、さすがに腹をたてて、メキノオトシゴを振り落とそうと、大きく体をゆらしました。
しかし、力のつよいメキノオトシゴは、しっかりとヤシノオトシゴのシッポに巻きついてはなれません。

「ちがいます、矢代さん! おれ、水槽の中にいたときに、きいたことがあるんです。珊瑚礁から、大陸棚にそって深い海の底まで潜っていくと、親のないタツノオトシゴたちの卵が眠る場所があるって……!」
「なんだよソレ……! そんなもん、都市伝説に決まってんだろ。離せよコラ!」
「でも、行ってみないとわからないじゃないですか! 大丈夫です、おれ一人で行きますから……だから、おれが無事卵をもってかえってきたら、おれと結婚してくれますか?」

メキノオトシゴは、長い口吻をヤシノオトシゴの頭や耳にたくさん押し付けながら、いいました。

「あなたのためなら、おれはどんな危険な海でも、必ず卵をもって帰ります……」
「はっ……バッカじゃねぇの……」

ヤシノオトシゴは、メキノオトシゴの口吻が触れるたびに、声があがりそうになるのを必死にこらえながら、いいました。

「魚に食われちまうぞ……おまえ……」
「いいえ。……あなたに卵をもってかえるまでは、絶対に、誰にもやられません」
「……っ……。深い海は水が冷たい。シッポを絡める珊瑚もねぇから、潮に流されて帰ってこられねぇぞ……」
「大丈夫です。おれは体が大きいから、自分で泳いで帰れます」
「強く願えば叶うほど、この世は甘くねぇよ……。しかもオマエ、この辺のこと、ほとんど知らねぇじゃん。それどころか、リアルな海もわかってねぇくせに、何世迷いごとほざいてんだ……」

ヤシノオトシゴは、はぁ、と熱いため息をつきました。
いくら突き放しても、このちょっとおバカな男は、ありもしない幻のタマゴを探して、大海原に飛び出してしまうのでしょう。
そうして、あっという間にマグロやエイにでも食われてしまうのに違いありません。

……それは、いやだ。

「……わかった。おれもヒマだし、おまえの世迷いごとに付き合ってやる。……そのタマゴを探す旅、おれもついていってやるよ」
「矢代さん……! 本当ですか⁈」
「ただし、今年だけだ。……来年は、もう、他のメスを探せよ」
「どうしてですか! おれは、一生、あなたを……」

ヤシノオトシゴは、今はもうシッポだけでなく胴体にもからみついているメキノオトシゴの、ぷっくりとふくれたお腹に、軽く口吻を押し当てていいました。

「おれはもう、今年で三年目だからな。……来年のいまごろは、きっともういない」
「えっ……そんな……」
「おれたちの寿命がどのくらいか、お前も知ってんだろ。まぁ、おまえはでかい種類だから、もうちょっと長生きするかもだが、おれの親はヒメタツだから、せいぜい三年ってとこだ。……旅に出るのはいいが、帰ってこられねぇかもな」
「矢代さん……! 大丈夫です、おれが、かならずあなたを守ります!」
「ははっ……バカだなぁ、おまえ。こんな、ちっぽけなヒレしかない、タツノオトシゴのおれたちにできることなんて、なんにもねぇよ。ただ……さいごのときがきても、絶対に絡めたシッポを離さないくらいしか……」

あのとき、妻のしっぽを離さなかったら。
自分は、妻や子供たちと運命をともにすることができたんだろうか?

ヤシノオトシゴは、そんなことを思って、じっとメキノオトシゴをみつめました。
自分は力がよわくて、水流にまけて妻のしっぽにしがみつくことができなかった。
妻の遺した子供たちもまもれなかった。
でも、いま、こうして、メキノオトシゴの前にいる。

こんどこそ。
こんどこそ、ぜったいに、離さない。
たとえ、ほかの魚に飲み込まれることになっても。

ヤシノオトシゴは、珊瑚の枝にからみつけていた自分のしっぽで、つよくメキノオトシゴのしっぽの先を握り込むと、少しだけ微笑って、言ったのでした。

「……さあ、旅にでよう。……おれたちの卵を探す旅へ」

 

 

3. 卵が眠る海


夜の海は、青黒く、つめたくて、ひっそりとしていました。
ヤシノオトシゴは、自分の鼻の先も見えないような暗がりのなかで、しっかりと自分をだきしめるメキノオトシゴの、強いしっぽの力を感じていました。
メキノオトシゴは、終始、あたまを左右にふって、あたりを警戒しています。
そのはりきりようが可笑しくて、ヤシノオトシゴは、つい、笑って言ったのでした。

「そんなに頑張るなよ。疲れちまうぞ?」
「矢代さん、どうして、夜のうちに出発を決めたんですか? 視界がわるくて、昼よりも危険な気がしますが」
「んー、まぁ、理由はいろいろあるけど。たしかに、夜は敵の姿が見えねぇから、周りを警戒して隠れるとかできねぇな。大きな魚に見つかったら終わりだ。でも、昼間は、おれたちの姿も敵に見えやすいだろ」
「それは……そうですが」
「大陸棚を深い方に潜っていくってことは、どのみち、おれたちが身を隠せるような珊瑚の枝は、先をすすむにつれて減ってくる。そうすっと、むしろ、見える方が危険になんだよ。それに、夜なら、鳥には絶対に狙われねぇだろ」
「鳥……って、なんですか?」

ヤシノオトシゴは、おもわず、口吻をぽかんと開きました。
タツノオトシゴの天敵は、大きな魚はもちろんですが、水深の浅いところで恋のダンスを踊る習性があるため、魚よりもむしろ鳥に狙われやすいのです。

そういや、こいつは、水槽生まれだった。

ヤシノオトシゴは、こんな世間知らずのトーヘンボクは、さっさとあの浅瀬を離れてよかったのかもしれない、と、はじめて思ったのでした。

「……オマエ、案外、おれに惚れて命拾いしたのかもなぁ……あのままあそこにいたら、明日には早速、カモメに食われてたかもしんねぇぞ?」
「カモメ……」
「鳥ってのは、空からおれたちを捕食する天敵だ。水面に黒い影がうつったら、やつらがおれたちを狙ってる。とくに、恋のダンスに夢中になってるペアは、やつらにとって格好のエモノだ。……来年、気に入りのメスをみつけたら、空の黒い影にはせいぜい気をつけるんだな」
「はい。気をつけます。……でも、来年も、おれといっしょにいるのはあなたです」

メキノオトシゴは、ヤシノオトシゴの体をしっかりとかかえたまま、たくさん口吻をヤシノオトシゴのすらりとした首に押し付けました。

「……っ……コラ、吸うなよ」
「おれ、吸引力がすごいんです。50センチ先のエビも一瞬で吸い込めます」
「……っ…………っ……なんの自慢だよ……っ……!」
「あなたが、何を食ったらそんなにデカくなるのか、と訊いたので。たくさん、いい獲物を食べると、寿命がのびるって、水槽にいたころに人間たちが言ってました。水槽の中では、どうしても栄養がかたよるから、3年が限度だそうですが、自然界では色々な種類の餌をたべられるから、寿命がのびる、と」

メキノオトシゴは、ヤシノオトシゴのちいさな口吻を、ちゅっ、ちゅっ、と音をたてて吸うと、熱いまなざしでじっとヤシノオトシゴの瞳を見つめました。

「だから、おれが、たくさん獲物をつかまえて、あなたに食べさせるんです。そうしたら、あなたもきっと、もっと寿命が伸びるでしょう?」
「……バカだな……おまえ……まずは自分が生き延びるのが先だろ……」
「矢代さん。タツノオトシゴの寿命が3年というのは、平均です。ほんとうは、3年まで生き延びられない個体の方がずっと多いのに、一部のかしこい個体がもっともっと長く生きるから、平均値が上にひっぱられて3年になるんです。……3年間、天敵にも襲われず、人間の手からも逃れて生き抜いてきたあなたには、おれたちが知らない知恵があります。今年うまれの若いメスとつがいになるより、あなたと一緒にいた方が、おれもきっと長く生き延びられる。……そう思いませんか?」

ヤシノオトシゴは、ふいをつかれて、おもわず背ビレをうごかすのをやめ、その場にかたまってしまいました。
3年間、ずっと、ヤシノオトシゴは、自分をだめなオスだと思って生きてきたのです。
でも、そんな自分が、こんなに立派なオスのメキノオトシゴの命を長らえさせることが、ほんとうにできるのでしょうか?

ああ、おれは、百目鬼が、すきだ。
もう、にどと、このしっぽを離したくない。

ヤシノオトシゴは、大きく見開いた眼に痛みを感じて、またうつむきました。
だけど、これは、けっして口にしてはいけないのです。
だって、ほんとうにオスの自分とつがいになってしまったら、メキノオトシゴは、もう自分の子孫をのこすことができなくなってしまうのですから。

「……バァカ。この程度の知恵、自然の海で生き抜いてきた古参にはアタリマエなんだよ。まぁ、今年はおれが色々教えてやるけど、来年はいいヨメさんみつけろ。でもって、ちゃんと子孫残せ。……それが、絶滅危惧種の役目だ」

 

二匹は、こうして、お互いにかたくしっぽを絡め合ったまま、深い海の底にゆっくりと潜っていきました。
大陸棚の岩壁から、色とりどりの珊瑚が消え、深いみどり色の海藻が消え、あたりの色は昼も夜も青黒くなり、やがて、漆黒の闇になりました。
お日様が出ていてもあたりが暗いので、二匹は、もう何日そうして泳ぎつづけているのか、わからなくなってしまいました。
水はつめたく、ちいさなヤシノオトシゴのからだは、冷え切ってあおざめ、固く石のようにちぢこまりました。
それでも、メキノオトシゴが、おおきなからだをぐるぐるにヤシノオトシゴにまきつけて、熱い息をふきかけると、すこしの間だけ、からだに血がかよって温まるようにおもえるのでした。

いつの間にか、あたりには、発光クラゲや発光エビが、おもいおもいに光って、周囲のプランクトンを照らし始めていました。
プランクトンは、タツノオトシゴの餌でもあります。二匹は、自分たちは強く絡まったまま少しも動かず、そばにやってきた小エビやプランクトンを吸い込んで、おなかを満たしていました。
ときおり、メキノオトシゴがおおきな獲物を吸い込んで、それをヤシノオトシゴに分けてくれましたが、そんなことをしなくても、この深い海には、プランクトンがたくさんいたのです。
ヤシノオトシゴは、やせっぽちだった自分のからだが、ここにきてから、すこしふっくらとしてきたのを感じていました。

これなら、たまごをちゃんと孵せるかもしれない。

オスの育児嚢はただの袋ではなく、卵が入ると、胎盤がつくられます。
胎盤は、卵の胚を丈夫な子供にそだてるのにとてもたいせつで、これがきちんとつくられるかどうかで、子供たちの生存率が決まるのです。

……バカだな。いくら胎盤をつくれたって、卵がねぇじゃん。

ヤシノオトシゴは、自分の想像が可笑しくて、すこし切なくて、ぷっと小さく噴き出しました。

「どうしたんですか? 矢代さん?」
「……なんでもねぇ。ところで、海の底についたみたいだけど、やっぱ、卵、ねぇよな?」
「わかりません……でも、もう少し、探してみたいのですが……」
「まぁ、せっかくここまで来たんだし、もう少しくらい粘ってもいいけど。でも、こんな暗闇の中でどうやって探す?」
「ここには、太陽の光も、月の光もとどきませんが、エビやクラゲがいっせいに光り出す時間があるようです。むやみに動くのではなく、その時間を待つ、というのはどうでしょう? もちろん、それを狙って深海魚もやってくるので、十分に気をつけなければなりませんが……」
「まぁ、海の底にはりついてりゃ、魚に見つかる確率も下がんだろ。上には光ってるやつらがいっぱいいるわけだし」

ヤシノオトシゴは、それよりも、なにもなかったときに、どうやってメキノオトシゴをなぐさめようかと、そればかりを考えていました。

卵なんて、あるわけがない。そんなお伽噺みたいな話。

はじめて親のない卵たちの話をきいたとき、ヤシノオトシゴは、もしかしたら、自分のように卵を守りきれなかったオスが流した卵が吹き溜まる場所があるのかもしれない、と思ったのでした。
潮の流れは、だいたい同じような場所に吹き寄せるので、そういうことならありそうです。
でも、そうだとしたら、その卵たちは、この冷たい水温にさらされて、とうに死んでいることでしょう。
そして、そんなことは、いくら世間しらずのメキノオトシゴだって、十分にわかっているのだろう、と、ヤシノオトシゴには思われたのでした。

それでも、諦めきれない。
どうしようもないのに、諦めきれないそのきもちだけが、ヤシノオトシゴには身に迫ってかんじられて、それ以上、バカな妄想だと笑い飛ばすこともできなくなってしまったのです。

……なぁ、百目鬼……。
この旅自体が、はかない幻みたいなもんだ。
幻は、おいかけてるときが一番しあわせなんだよ。
そばに寄ってみたら、あれほど光ってみえた宝が、ただのガラクタだった、ってわかったとき、おまえならどうする……?

 

「矢代さん!」

そのとき、メキノオトシゴが、声をあげてヤシノオトシゴのからだを強くひっぱりました。
ヤシノオトシゴは、メキノオトシゴに振り回されて、一瞬目をまわしかけましたが、くるりと後ろをふりかえるかたちになって、おもわず目を見張りました。
砂でできた丘の向こうの窪地に、発光クラゲの光に照らされて、白くひかる粒がたくさん見えたのです。

「ありましたよ! 矢代さん! あれがきっと、親のいない卵にちがいありません!」
「待て百目鬼、おちつけ! そうやって、寄ってくる魚を食おうとするやつの罠かもしれねぇだろ⁈」
「あっ、そうですね、矢代さん! でも、おれたちは光らないから、奴らの目にも見えにくいはずです。ゆっくり、枯れ草のふりをして近づけば、きっと俺たちを食えるとは思わないんじゃないでしょうか?」
「そりゃ、まぁ、擬態はおれたちの生存戦略だが……ココ、枯れ草とかほとんどねぇぞ? 騙されるか?」
「大きく動かなければ、大丈夫です、きっと!」

二匹は、かたくしっぽを結び合ったまま、じりじりと光る粒の方へとおよいでいきました。
頭上では、クラゲたちが恋を語らいながら、きみどりや、青や、赤い光を、ネオンサインのようにぴかぴかと点滅させています。
「なんだか、ラブホテルみたいですね」
メキノオトシゴがそんなことをいうので、ヤシノオトシゴは、けげんな表情でメキノオトシゴの横顔を見返しました。
「ラブホテル? って、なんだ?」
「人間たちが、テレビ、という箱のなかで見ていました。交尾するときにつかう部屋で、いろいろな色の光がぴかぴかしてるんです。あんなところではおちついてできない、と思ってましたが、こうしてみると、悪くないです……あなたの顔が、とてもよく見えるし」
「……いや……交尾は……」
できねぇだろ、とヤシノオトシゴは思いましたが、どうせ言わなくてもすぐにわかることなのだから、と、その先はいわず、口をつぐんでしまいました。
メキノオトシゴは、そのヤシノオトシゴの逡巡に気づかなかったのでしょうか。
ただ一心にじっと前をみつめたまま、しずかに、こう言ったのでした。
「さあ、つきましたよ、……矢代さん」

 

ヤシノオトシゴは、メキノオトシゴのシッポに抱えられたまま、目の前に広がる一面のひかる粒を見つめました。
「………ああ………」
それは、ずっととおくまで、はてしなく広がる、小さな小石の海原だったのです。
ちょうど、タツノオトシゴのたまごくらいの大きさの、大理石のようなまあるい粒が、延々と、視界の向こうまで広がっています。
そこには、もちろん、親となるタツノオトシゴの姿もなく、ただ、しんとしずまりかえった黒い海の底で、幾千、幾万もの小石が、しろい石肌を、クラゲたちのはなつ光に、淡く反射させているのでした。

「……っ……そっか……………石………」

ヤシノオトシゴは、きゅうに両目に溢れてきた涙がとまらなくて、おもわず強く鼻をすすり上げました。

……最初から、わかっていたんじゃないか。
たまごなんて、どこにもないことくらい。

どうしてこんなに胸が痛むのか、ヤシノオトシゴにはわかりませんでした。
ただ、きっと、自分は、この光景をわすれないだろう。
そう思って、ヤシノオトシゴは、この白い光の海を、からだの節々のひとつひとつ、ひれの先のひとつひとつまで染み込ませるように、じっと両目をみひらいて見つめていました。

でも、そのとき。
メキノオトシゴが、とてもしずかな声で、言ったのです。

「さあ、これが、あなたの卵です。」

ヤシノオトシゴは、びっくりして、メキノオトシゴの方をふりかえりました。
メキノオトシゴは、からだをひねって外れかけたヤシノオトシゴのからだを、またつよく引き寄せると、からだぜんぶをつかってヤシノオトシゴを抱き込み、ほおずりをしたのでした。

こいつは、なにを言っているんだ。
オスのくせに、オスに惚れて、それでも卵がほしいと駄々をこねるバカには、小石でもあてがっておけ、と、軽蔑しているのか?

ヤシノオトシゴは、混乱しました。
どうみても、これらは、ただの小石なのです。
持って帰ったところで、孵るはずもないものたちなのです。

しかし、そのとき、クラゲたちがいっそう強いひかりを放って、ヤシノオトシゴは、燃えるような熱をこめたメキノオトシゴの瞳が、じっと自分を見ているのを知ったのでした。

ああ、違う。
こいつは、幻を、ほんとうにしようとしているんだ。
近づいてみたら、ガラクタだった。でも、そのガラクタを、宝物に変えようとしているんだ。
そうして、この幻をおいかける旅も、ほんとうにしてしまうつもりなんだ。

メキノオトシゴは、さいしょから、ここになにがあるのか、知っていたのかもしれません。
それでも、ヤシノオトシゴのために、たまごを持ってかえろうとしたのでしょう。
……ほんとうの海のことなんか、なにもしらないくせに。

だから、ヤシノオトシゴは、思ったのです。
どうせ、これが、最後の繁殖期なんだ。
それなら、この魔法にのっかってみるのも、悪くないだろう、と。

「……ああ……そうだな……。……そんじゃ、さっそく、ヤってみるか」

 

 

4. 詰める


ヤシノオトシゴの瞳に、頭上でぴかぴかとひかるクラゲたちの乱舞が映っていました。
ヤシノオトシゴは、なんども、大声をあげそうになって、そのたびに、メキノオトシゴに「しずかに、魚に見つかります」と口吻を塞がれるのを、繰り返していました。

「……っ…………っ………‼︎」
「だめです、矢代さん、動かないで」

体をあおむけにおさえつけられて、身動きができずにいるヤシノオトシゴに、メキノオトシゴは余すことなく口吻を押し付けて、吸い跡がのこるほど強く吸い上げました。
ひとつ吸われるたびに、冷えて固まっていたヤシノオトシゴのからだに熱がともり、ヤシノオトシゴはまるで恋のダンスを踊ったときのように、胸が高鳴るのを感じたのでした。

ああ、からだじゅうの細胞が、生き返るような気がする……

「ここで恋のダンスを踊るのは、危険すぎますから……これで、我慢してください」
「……っ……なぁ………これって……おまえはイイの……?」
「すごくイイですよ……綺麗なあなたの、こんなにあられもないすがたをじっくり眺められるなんて、そうないでしょうから」
メキノオトシゴは、満足げにほほえむと、またつよく、ヤシノオトシゴの首を吸い上げました。
「あられもない……ってなんだよ………んんっ………!」
「ほら。そういうところです」
「クソっ……! おまえばっかズルいだろ……こっちにも吸わせろ……っ!」
「なにを言ってるんですか。おれは必要ありません。からだを緩めなくちゃならないのは、卵を抱えるあなたの方ですから」
メキノオトシゴは、ヤシノオトシゴのお腹で震えているちいさな育児嚢の、さらに小さな開口部に、太い口吻を押しつけました。
「……あ……あああっ‼︎」
「全然入らないじゃないですか。おれにはメスの産卵管はありませんから、これが入らなかったら、あなたに卵を届けられません。……頑張って、緩めてもらわないと」
「ま……待て! ……おまえ、まさか、おまえのその太い口を、ここに突っ込むつもりなのか⁈」
「それ以外にどうしろと? おれだって、あなたと交尾したいです」


ヤシノオトシゴは、すっかりあおざめて、自分のちいさな育児嚢と、メキノオトシゴの太い口吻を見比べました。
メスの産卵管はもっとずっと細くて、なにも苦労しなくてもするりと入りましたが、メキノオトシゴの口吻ときたら、太くて長い上に、先の方がすこし広がっているのです。
「ほら、もっと、力を抜いてください」
「ちょっ……無理……あ……あああっ!」
メキノオトシゴが強く開口部を吸い上げると、ヤシノオトシゴの背筋をぞわぞわとした感覚が走りました。全身の力が抜けて、ぐったりとメキノオトシゴのしっぽにからだを預けると、その瞬間に、ぷつり、とメキノオトシゴの口吻が開口部を通り抜け、袋の奥まで侵入してきて、強く中を吸い上げたのです。
「ああっ!……んっ……あ……ああああっ!」
「……ここ……弱いんですね……少し吸うだけで、すごく、気持ちよさそうです……」
「んんんっ……や……見んな…………!」

ヤシノオトシゴは、お腹の中の、奥の方に吸い付いてくるメキノオトシゴの口吻のやわらかな感触に耐えきれず、ひっきりなしに、高い叫び声を上げました。
お腹の中をまさぐられるのは、気を失いそうになるほどきもちよくて、同時に心臓が爆発しそうなほどしんどくて、胸がぎゅっといたくなるのです。
「矢代さん、そんな大きな声をあげたら、魚にみつかります」
メキノオトシゴは、そうして、ヤシノオトシゴが声をあげるたびに、口吻をおなかから引き出して、ヤシノオトシゴの口吻を自分の口吻でふさぎました。
そして、育児嚢から口吻を出し入れされるたびに、ヤシノオトシゴの白いからだは、その衝撃でびくびくと震え、薔薇色に染まるのでした。

交尾って、こんなだったのか?
ヤシノオトシゴが、以前に体験した交尾は、こんなにきもちよくはありませんでした。
一緒にダンスを踊って、水面まで浮き上がった一瞬に、メスが産卵菅を育児嚢の開口部に差し込んで、卵のかたまりをうみつける。ただ、それだけだったのです。

ほんとうに好きな相手とする交尾は、こんなにきもちいいものだったのでしょうか?

「あ……! ……も……い、っ……いく…………っ……!」
「まだです。まだこれからです」

メキノオトシゴは、ヤシノオトシゴのからだを横たえた小石のベッドから、ちいさな小石をひとつ、口に含みました。そして、それを一度自分の育児嚢にいれてあたためると、またそれを口にくわえて、ヤシノオトシゴの育児嚢の開口部から、深く一番底まで差し込みました。
「────っ‼︎」
ヤシノオトシゴが、声にならない叫びをあげました。ただでさえメキノオトシゴの口吻に吸われて敏感になっているのに、そこに固い石が入ってくるのだから、たまりません。
「ぁ……んっ………ん…っ…………」
「まだたったひとつですよ。そんなに締め付けないで、もっと、中を広げてください……」
「……な……に……言って…………」
「おれは、子供は500ぴきほしいです。繁殖周期が3週間、出産後24時間以内にまた交尾するとしても、冬までにできるのはせいぜいあと4回ですよね? だったら、1回につき、百匹は産んでもらわないと」
「百っ…………! ば……か…………!」
「おれは本気です。大丈夫ですよ。あなたが十分にからだをゆるめてくれれば、100個くらいは入ります。泳げなくても、おれがちゃんと上まで連れて帰りますから」

100個も石をおなかにつめこんだら、泳ぐどころか、浮き上がることもできないかもしれない。
ヤシノオトシゴは抗議しようとしましたが、メキノオトシゴがつぎつぎにおなかに石を詰め込んでくるので、あられもない喘ぎ声を上げることしかできず、ついに、根負けしてされるがままになってしまいました。


おなかに石をひとつ詰め込むたびに、全身をびくつかせて、うるんだ瞳でこちらを見上げてくるヤシノオトシゴのすがたを見て、メキノオトシゴは、胸が熱くなるのを感じました。
これは、ただの石じゃない。
ちゃんと、自分のお腹に一度いれて、自分の精子をかけてから、ヤシノオトシゴのおなかのなかでそだててもらう、ふたりの子供なのです。
たとえ、孵ることがなくても、それだけは、ぜったいにかわらないのです。

「ど……めき…………も……む、り…………」
80個の小石をつめこんだところで、ヤシノオトシゴが、うっすらと涙を浮かべて、小さくつぶやきました。
メキノオトシゴは、そのむずがるようなヤシノオトシゴのしぐさがあまりにかわいらしくて、また強くしっぽをからみつけて、ヤシノオトシゴの口吻を吸い上げました。
「無理、じゃないでしょう? まだこんなに上の方があいているのに」
「……っ…………そこ……触ると…………動けな………っ…………!」
「ここ、すごく、きもちいいんですね? だから、卵があたると、イキっぱなしになるんですね?」
「あ……ああああっ!」
メキノオトシゴが口吻を差し込んでそこを強く吸うと、ヤシノオトシゴはからだを強く跳ねさせて、両の瞳から大粒の涙をこぼしました。
「だって、卵が、ほしかったんですよね? おれの方が、からだも育児嚢もおおきいのに、あなたが、産みたいんですよね?」
「……っ……っ…………」
たいせつな、たいせつな二人の子供たち。
もうひとつくらいは、受け入れてくれないだろうか?
メキノオトシゴが、口吻で袋のなかをまさぐり、口に含んだ小石をそっと吐き出すと、ヤシノオトシゴは、またびくりとからだを跳ねさせて、叫んだのでした。

「も……っ……はちきれる……っ…………!」

メキノオトシゴは、ぱんぱんにふくらんだヤシノオトシゴのおなかを、そっと口吻の先で撫でました。
ここまでか。
できれば500匹の子供がほしかったけれど、ヤシノオトシゴは自分よりからだが小さいし、いちどに100匹は難しいのかもしれない。

メキノオトシゴは、まだ口の中に残っていた小石を、そっともとの場所に戻そうとしました。
そのとき、そのメキノオトシゴの口吻に、ヤシノオトシゴの口吻が吸い付いたのです。
「んっ……んんんっ………!」
メキノオトシゴがびっくりしてからだを起こすと、全身をうっすらとピンク色に染めたヤシノオトシゴが、目尻を赤く染めたまま、メキノオトシゴを睨みつけているのでした。
「……それ……よこせよ………おまえの精子……かかってんだろ?」
「矢代さん……」

さっきまで、もう無理、と音を上げていたのに。
卵を捨てるのは、許せない、ということなのでしょうか。
メキノオトシゴは、ヤシノオトシゴが、そうして、この小石に執着を見せてくれたのが嬉しくて、じんわりと微笑みました。
「……はい……。じつは、まだ、おれの腹の中に20個あるんです……。おれが育ててもいいですが……どうしますか?」

 



5. 心音


「矢代さん、今日の体調はいかがですか?」

穏やかな、ほとんど波のこない入江の岩陰に、色とりどりの珊瑚と、やわらかなマユハキモの葉をしきつめたベッドがありました。
その、人魚姫の寝室のような豪華なベッドの上に、ヤシノオトシゴは仰向けにじっと横たわっていました。
なにしろ、百の小石をぱんぱんに詰め込んだお腹が重すぎて、立ち泳ぎはおろか、珊瑚の枝につかまることもできないのです。
あの深海の底で、メキノオトシゴと長い交尾行動を終えたあと、ヤシノオトシゴはもう一歩も動くことができなくなり、そのままメキノオトシゴに抱き抱えられて、海の浅瀬まで戻ってきたのでした。

潮の流れが変わってしまったせいなのか、この海を知らないメキノオトシゴが方向音痴だったのか。
水面まで上がってみれば、そこはヤシノオトシゴが見たこともない、小さな島の入江でした。
空からタツノオトシゴを狙う鳥のすがたもなく、入江の岩場は入り組んでいて、大きな魚も入ってこられません。
メキノオトシゴは、おおいそぎでヤシノオトシゴを寝かせるベッドをつくると、自分はもう少し海の深いところまで潜って、動けないヤシノオトシゴのために、エビや小さなカニをとってくるのでした。

「ん……悪くねぇけど……おまえ、もう、危ねぇ場所には行くなよ? 餌はここでも捕まえられるし、無理にエビやカニをねらわなくても……」
「でも、あなたには、栄養が必要ですから」
「いや……まぁ………」

これが、本当のタマゴなら、たしかにそうなんだけどな。

ヤシノオトシゴは、またこぼれそうになったため息を、無理矢理喉の奥に飲み込みました。
あの海の底から戻って1週間。
メキノオトシゴの語る夢に付き合う、と決めたものの、どこで現実に戻ればいいのか、ヤシノオトシゴは考えあぐねていました。
出産までの3週間がすぎても、何事もおきなければ、その時点でこの幻は終わるのでしょう。
それとも、メキノオトシゴは、今回は運がなかった、と諦めて、また次の幻をみようとするのでしょうか?

……だとすると、おれは今後一生、腹に小石を詰めて、動けずにいるのかもな……。

ヤシノオトシゴは、なんとなく、そんな一生でも悪くないか、と思った自分が可笑しくて、微笑みました。
メキノオトシゴは、その微笑みにぼうっとなり、またたくさん口吻をヤシノオトシゴの口と言わず、頬と言わず、押し付けたのでした。

「おれ、もう一度獲物取りに行ってきます」
「……ん……気をつけろよ」

ヤシノオトシゴは、張り切って泳ぎ出したメキノオトシゴの後ろ姿を見送って、自分の丸くパンパンに膨れたお腹を眺めました。

……歌ってみるか。

そうして、2年ぶりに、おなかの子供たちのための唄を歌いはじめたのでした。

うーたーをーわすれーたー カナリーヤーはー……

 

メキノオトシゴは、遠くから、ヤシノオトシゴの小さな歌声が聴こえるのに気づいて、耳を澄ましました。


唄を忘れた 金糸雀は
うしろの山に 捨てましょか
いえ いえ それは なりませぬ

唄を忘れた 金糸雀は
背戸の小藪に 埋けましょか
いえ いえ それは なりませぬ

唄を忘れた 金糸雀は
柳の鞭で ぶちましょか
いえ いえ それは かわいそう……


メキノオトシゴは、ヤシノオトシゴの唄があまりにも悲しいので、おもわず獲物もとらず大急ぎで戻って、いいました。

「矢代さん、どうしたんですか? とても、悲しい歌詞です……」

ヤシノオトシゴは、さっき出ていったばかりのメキノオトシゴがもう戻ってきたので、少しびっくりして言いました。

「ああ、これな。悲しいか?」
「悲しいです……。『かなりや』が何なのか、おれにはわかりませんが……捨てるとか、埋めるとか、鞭でぶつとか……」
「あー、たしかに、ソレだけきいたら、かなりヤクザだな、この歌詞」

ヤシノオトシゴは、よっこいしょ、と重いからだをメキノオトシゴの方に向けて、くすくすと笑いました。

「金糸雀、てのは、鳥の一種だ。海にはいねぇけど……綺麗な声で鳴くんだそうだ。で、この唄は、4番がいいんだよ」

そうして、ヤシノオトシゴは、また歌い始めたのでした。


唄を忘れた 金糸雀は
象牙の船に 銀の櫂
月夜の海に 浮かべれば
忘れた唄を おもいだす


「月夜の海………」
「……そ。だから、おれは、この歌はずっと魔法の歌だと思ってた。どんなに悲しいことがあっても、ヤケにならないでじっと我慢して、月の光を浴びれば、きっとうまくいく、って」
「矢代さん……」

メキノオトシゴは、胸がいっぱいになって、それなのにぎゅっと苦しくて、ぽろぽろと涙をこぼしました。
おれは、このひとが、大好きだ。
このひとのほかには、もう、なにもいらない。

「なんだよ……泣いてんのかよ」
「はい……だいすきです、矢代さん」
「……ハナミズ、出てんぞ」
「今晩、月がでたら、もっと浅瀬に行きましょう。そこで、あなたの唄をききたいです」


それから、メキノオトシゴは、月が綺麗な夜には、ヤシノオトシゴのからだを大事にかかえて、入江のいちばん水の透き通った浅瀬につれていくようになりました。
そんな夜には、二匹は、まっしろい月のひかりを全身にあびて、ぴったりとからだをよりそわせ、朝がくるまでお互いの心音をきいているのでした。
メキノオトシゴの心音は、すこしゆっくりで、力強くて、ヤシノオトシゴは、いつまで聴いていても飽きない、と、とてもしあわせな気持ちになるのでした。

それは、おおきなまんまるい丸い月が、南の空たかくのぼった、満月の夜のことでした。
いつものように、メキノオトシゴの胸に寄り添っていたヤシノオトシゴは、メキノオトシゴの心音とは違う、ちいさな音が聞こえるのに気づきました。
なんの音だろう?
じっと耳をすませば、なんと、その音は、自分のからだの中から聞こえてくるのです。

とく、とく、とく。
とく、とく、とく、とく、とく、とく。

そして、耳をすませるほど、その音はどんどん増えて、ヤシノオトシゴのからだのすみずみにまで、響き渡ったのです。

「………百目鬼!」

ヤシノオトシゴは、ヤシノオトシゴのからだを抱え込んでまどろんでいたメキノオトシゴのからだを、つよくゆすりました。

「……矢代さん……? どうしたんですか?」
「起きろ、このねぼすけ! ……たまごが!」
「……どうしました⁈」
「心音がきこえる! ちょっと中を見てくれ!」

メキノオトシゴは飛び起きると、あわててヤシノオトシゴの袋の口に大きな目を近づけました。
百個のたまごをつめこまれて薄くのびきったヤシノオトシゴのお腹の皮は、月の白い光を透かせて、なかを淡く照らし出していました。
そして、そこには。
ちいさな、ちいさなタツノオトシゴのすがたをした子供たちが百ぴき、ヤシノオトシゴの胎盤につつまれて、すやすやと寝息をたてていたのです。

「………矢代さん! 孵りました、たまごが!」
「うそだろ……夢みてんのか? おれたち……」
「いいえ! きっと、あなたの唄のおかげです! 月の光をあびて、思い出したんですよ、自分達はタマゴだった、って!」

ヤシノオトシゴは、ぼうぜんとして、メキノオトシゴの顔をみつめました。
ほんとうに、あれは、タマゴだったのか。
無防備に、こんな明るい場所で居眠りなんかしていたから、実はもう二人ともサカナのエサになっていて、ここは死んだあとの世界なんじゃないだろうか?
しかし、目と鼻を涙とハナミズでぐちゃぐちゃにしたメキノオトシゴが、ところかまわずヤシノオトシゴのからだを強く吸って痕をつけるので、その甘い痛みで、ヤシノオトシゴは、これがほんとうに起きたことだと知ったのでした。

……そうか。ほんとうに、夢がかなったんだ。

ヤシノオトシゴは、しっかりと自分にからみついて離れない百目鬼の胸に、また耳をよせました。

とくとく、とくとく、とくとく。

さっきまでゆっくりと刻んでいた心音が、いまは、爆発しそうなほど、猛スピードで打っています。
そして、それよりもさらに速く、自分の心臓がどきどきと脈打っているのを、ヤシノオトシゴは知っているのでした。

「百目鬼。……あんがと、な。夢がかなった」

ヤシノオトシゴのちいさな呟きをきいて、メキノオトシゴは、興奮してヤシノオトシゴのからだを吸うのをやめ、その顔を覗き込みました。

「子供をそだてる夢……おれは、あなたなら、きっとできる、とずっと思っていました」
「いいや、ちがう」
「……えっ?」

メキノオトシゴは、びっくりしたように、少しおおきな目を見開きました。

まぁ、そりゃ、そうだよなぁ。
最初は、そう言っていたわけだし。

ヤシノオトシゴは、その鳩が豆鉄砲をくらったようなメキノオトシゴの表情がおかしくて、くすくすと笑いました。

いつのまにか、一番ほしいものが、変わってたんだよ。
おれも、いままで、気づかなかったけどな。

ヤシノオトシゴは、けげんな表情で自分をみつめているメキノオトシゴの口吻を、思い切り音を立てて吸うと、笑っていいました。

「これからも、おまえのそばにいて、もう少し長生きしてもいいかな、って夢だよ。……なんせ、子供、5百匹もこさえなくちゃなんねぇし? 今年中に、ノルマ達成できるかどうかも、怪しいからな」

 

 


1週間後。
まる1日にわたって、腹がいてぇ、と叫びつつ、なんとか百匹の子供たちを海に送り出したヤシノオトシゴは、生まれてきた子供たちがどれもメキノオトシゴとヤシノオトシゴの顔をしているのを見て、なんともいえない表情になったのでした。

「これって……クローン……だよな?」
「……クローン……ですね……」
「繁殖……に、なってんのかねぇ……? 多様性はゼロだよなぁ……ま、俺が死んでも、代わりがいるから、お前が未亡人にならなくて済む、って利点はあるか?」
「それはないです」

メキノオトシゴは、まだ名残惜しげにヤシノオトシゴの袋にしがみつこうとしている、自分にそっくりの子供の一匹を口に含むと、ぷっ、とそれを海の向こうに吐き出して、いいました。

「おれの最愛のひとは、今、目の前にいるあなただけです。だから、あなたには、もっともっと長生きしてもらわないと困ります。さしあたり、今日の午前中はおれがご馳走をたくさんとってきますから、それをしっかり食べて、夕方から、また卵をとりに行きましょう」
「げっ……マジかよ……!」
「はやくしないと、あと4回出産する前に冬がきてしまいますから。繁殖シーズンが終わるまでは、休む暇はありませんよ?」

 

 

 

こうして、ちいさな島の入江は、その夏がおわるまえに、たくさんのヤシノオトシゴとメキノオトシゴでいっぱいになったのでした。
たくさんのエビやカニをまいにち食べたおかげで、ヤシノオトシゴのからだはすっかり若返り、二匹はその次の年も、またその次の年も、幸せに末長く暮らしました。


だから、その島を訪れたなら、波打ち際で、耳をすませてみてください。
ちいさな、ちいさな、ヤシノオトシゴがかける魔法の唄が、きっと聞こえるでしょうから。

 

 

 

6. エピローグ

 

「……いや……なんつーか……もう、どっからコメントしていいのかわかんねぇんだけど………」
「……だめ、ですか?」
「いや、ダメじゃねぇよ? 葵チャンの絵も可愛いし? でもなんで、ヤシノオトシゴとメキノオトシゴ?」
「ああ、それは、……最初は普通に、ヒメタツとオオウミウマ、で書いてたんですが、それでは子供に受けないと……それで、急遽名前を」
「待て、葵チャン、こんなエロ小説、子供向けの本にするつもりなのかよ⁈」


矢代姫は、湯上りの熱ったからだをバスローブに包んだ姿のままで、手にした数枚のコピー紙と、すっかりやつれた様子の百目鬼を交互に眺めました。
百目鬼は、この1週間ほど、妹の葵が監修する子供向けの本の物語を執筆していて、矢代姫が眠るこのベッドルームにも姿を見せませんでした。
このトーヘンボクに、童話なんて書けるのかねぇ。
そう思っていたのですが、百目鬼は、矢代姫が見たことも聞いたこともないような、タツノオトシゴ(♂)のカップルの話を書いてきたのです。

「なんかこのへんの浅瀬に、やたらヒメタツとオオウミウマが多いワケを、それとなーくイーアスに知らせる内容になってんのは、いいと思うけどな……」
「あの小石のことを、何とか人魚たちに伝える方法はないか、とあなたが言っていたので、物語に紛れ込ませばいいか、と思ったんです。……あれが大昔の魔女が遺した産物だとすれば、俺たちが思う以上に、このあたりの海はまだ太古の魔法を維持できている、と思っていいんでしょうか?」
「まぁ、あれが未知の生物って線もあるから、なんとも言えねぇけどな。今わかってんのは、あの石原を中心に、クローンが増えてるってだけだし。でも、俺の鱗みたいなチートなアイテムもアリだったんだから、海洋生物の願望を叶える、みたいな魔法が他にもあってもおかしくはねぇだろ」

百目鬼と矢代姫は、かつては人魚だったので、少しの時間なら深い海の底まで潜ることができます。
それで、人間との交易に使える海洋資源を探していたときに、不思議な性質をもつ小石を発見したのでした。

「俺が逃げちまって、国を守る魔法がまた一つ消えたのは事実だから、あれがもし魔法の産物なら、使わねぇ手はねぇよ。殆どのヤツにはただのエロい童話だろうが、三角さんなら多分気づく。……いや、待てよ? もう少し、わかりやすくハッキリしたメッセージにしてやろうか?」

矢代姫は、急に愉しそうな表情になると、赤ペンを取り出して、原稿用紙にあちらこちら、なにやら書き込み始めました。
百目鬼が、床に落ちた原稿用紙の一枚を拾い上げてみると、そこには、もとの文章を二重線で消した上に、こう書いてありました。

『おれは、メキノオトシゴ、長いので皆おれのことを百目鬼と呼んでます』

「……矢代さん……これ………」
「国を滅ぼそうとした大罪人の名前が出てくりゃ、三角さんも無視できねぇだろ?」
「それはそうかもしれませんが……発禁になりませんか?」
「ならねぇよ。国民には、俺の存在も、お前があの噴火騒ぎの元凶だってことも公表されてねーんだから。これで俺の名前も出せば、三角さんなら確実に、この話が俺たちからのメッセージだと気づくだろ」


矢代姫は、「よし、これで完成」と赤ペンとコピー紙をサイドボードの上に放り出すと、腰掛けていたベッドから立ち上がりました。
ゆるく結ばれたバスローブの紐がはらりと落ち、その下に隠されていた、少し汗ばんだ矢代姫の体があらわになりました。
その白く滑らかな肌に、雲間から顔を出した月の光がおちかかり、百目鬼は急に矢代姫の体が光りだしたように感じて、思わず喉をならしました。

そういえば、もう1週間、矢代さんに触れていない。
あの肌に、思い切り吸い付きたい。

1週間、あまりにも物語に没頭していたせいで、百目鬼の思考はすっかりメキノオトシゴに同調してしまっていました。
百目鬼が、ほとんど無意識に矢代姫の腰を強く引き、お腹とお腹をぴったりくっつけて、まだ湯上がりの香りのする矢代姫の首筋を強く吸い上げようとしたその時。
突然、矢代姫が、百目鬼の首に申し訳程度にぶら下がっていたネクタイを強く引っ張ったのです。

「……矢代さん⁈」
「イイ感じにサカってるとこ悪いけど。お前さ、あのエロシーン、なに? お前の、願望?」
「……っ……それは…………」
「ヒメタツのオスのエロい出産現場見て、この俺にも、お前の子供産んで欲しい、とか思っちゃったワケ?」
「や……しろさん……くるしい…………です……っ……!」
「だよなぁ〜? 俺も百匹も子供孕ませられたら苦しいと思うわ〜? しかも80でギブしてんのに、結局オマエ100個つめこんだんだよな? な、オマエって、サドの気もあんの?」

いえ、あれは、あくまで、ヤシノオトシゴとメキノオトシゴの話であって!
その名前を「矢代」と「百目鬼」にしたのは、あなたなんですが⁈

百目鬼はそう思いましたが、つい夜半に妄想が爆発したのは事実なので、素直に謝ろうとしました。
「す……すみま…………‼︎」
「なんだよ、上等じゃねぇの。それならそうと、さっさと言えよ」

百目鬼は、びっくりして、矢代姫の腕に逆らうのをやめてしまいました。
と、その次の瞬間、矢代姫が百目鬼のネクタイを掴んだままベッドにダイブしたので、百目鬼はそのまま矢代姫の体の上に倒れ込んでしまいました。

「……なあ、子供百匹、孕ませてみろよ。……まさか、タツノオトシゴより弱ぇとか、言わねえよな?」

百目鬼は、矢代姫の瞳が、月明かりを受けてきらきらと輝いているのを見ました。
まさか、矢代さんも、同じ気持ちだったんだろうか?
実は、あの浅瀬で、しっぽを固く結び合ったオオウミウマとヒメタツの姿を最初に見つめていたのは、矢代姫の方だったのです。

違う種族でも、寿命が違っても、オス同士でも。
ずっと、体を絡め合って、そばにいる。
そんなちいさな生き物が、愛おしくて、少し羨ましくて、百目鬼もまた、目を離せなくなってしまったのでした。

ああ、これは、あの小石と同じだ。
強い願いを込めて、胸に抱けば、願いが叶う魔法の瞳……

「……そうですね、いつか、その時がきたら。でもまずは、あなたがあと百回生きられるくらい注ぎ込んで、あなたの寿命をのばしたいです。……あと、そういうのが好きなら、もう無理、とあなたが音を上げても続けますが……?」

あなたは、少し虐められると、より強く感じる傾向があるみたいだから、と、百目鬼がキスに混ぜてつぶやくと、矢代姫は強く両足を百目鬼の足に絡ませて、花が開くように笑ったのでした。

「ははっ……いいな、ソレ。」

 

 


Fin.



 

 

 

 

あとがき。

この話の発端は、正月に描いたタツノオトシゴのイラストでした。
辰年、といっても、龍を描く技量も時間もなかったので(笑)安直にタツノオトシゴにしておこう、と資料を調べ始めたら、なんじゃこりゃリアルオメガバースじゃん!!! と(笑)

タツノオトシゴはオスが卵を抱える袋を持っている、というのは以前から知っていたのですが、まさか胎盤までつくり、胚と栄養や老廃物のやりとりをし、出産(?)時には袋を収縮させるためにオキシトシンが出る、とまでは知らなかったのですよ…。オキシトシンは人間が出産時に子宮を収縮させるときにも出ているホルモンで、ぶっちゃけ、魚に痛覚があれば、オスが陣痛を感じる、というとんでもない話になります(笑)。
(ここで見た https://biome.co.jp/biome_blog_284/

さすがに、こんな不思議な生殖をする魚は、タツノオトシゴだけらしい。
あと、一度つがいになったら一生ペアがかわらないとか、毎日愛の絆を確かめるために恋のダンスを踊るとか、実は泳ぐ速度が遅すぎてギネスに載ってるとか、尻尾をお互いに絡ませてお腹同士をくっつける交尾の形が❤️に見えるとか、ペアが固定されているせいで、乱獲で一方がいなくなると、残った方もなかなか生殖活動に復帰できないのが数の激減の理由の一端とか、もうネタにしなければバチがあたる、ってくらいオイシイ話ばかりで、こりゃもうタツノオトシゴBLを書くしかない! と思ったのが、1月の上旬でした。

しかし、1月の夜カフェのお題は「髪」だったので、タツノオトシゴに髪はねぇだろ、じゃあ2月の「心音」合わせにして、お腹のかわりに胸くっつけてる絵でも描いて、アホアホなタツノオトシゴBLのカバー絵にでもしようかと、ラフだけ描いて放っておいたんですね。
そしたら、なんと、56話チラ見せであの衝撃のコマが😂
いや、1月の夜カフェに出さなくてほんとによかった!!!😂

というわけで、もういっそ、56話オマージュ的な話にしちまってもいいか、と開き直り、最後のセリフがアレになりました…(笑)パクリではなくオマージュのつもりです! てことで、広ーいお心でお許しいただければ幸いです😅


最後のエピローグは、「ねむりひめ」しらん方にはなんじゃこりゃ、の内容だと思いますので、4章までで終わりと思っていただければ幸いです😅。
ねむりひめの方も見てもイイヨ、と言っていただける方は、こちらにサンプルがあります。
https://www.pixiv.net/novel/series/9394972
(すみません、まだ在庫あるので全編公開はしてません😅 boothで通販してますのでよろしかったら❤️)

 

ちなみに、作中に出てきた「歌を忘れたカナリヤ」ですが、成田為三の曲だし、とうの昔にPD(著作権切れてる)と思っていたら、西条八十の歌詞の方はまだ著作権切れてませんでした…😅 というわけで、急遽はてなブログに引っ越しました😅。

 

 

 

 

 

真夜中の鳥 2(影山)

時折、俺が部活を終えて帰る時刻に、ひっそりと病院の裏口から帰る患者がいる。
 いつも顔を隠すように俯いて、時折、小さな女の子の手をひいている。
 その患者の帰ったあとの父の顔は、きまって曇りがちで、かならずひとつ大きな溜息をつく。
 まるで、自分の無力に打ちのめされたかのように。

 

 親父は、2年前に膵臓がんが見つかった。ステージ4だった。
 手術が可能なタイプだったのはまだ幸運だったが、この先の命がどれほどのものか、本人が一番よく知っているだろう。
 だから、その日がくるまで診療を続ける、と言った時、お袋も俺も止めなかった。

「……あの、たまに時間外で来る母娘の患者。……家庭内暴力、なんだろ?」

 月が明るい縁側の、親父の横に腰掛けて、先週も見かけた母娘のことを聞いてみた。
 顔に貼られた大きな絆創膏や、腕の包帯。
 一度や二度ならともかく、頻繁に見かければ、流石に俺でも気づく。
「女の子の方は、今は母親が体張って守ってるみたいだが……あの子が被害者になる前に、説得すべきなんじゃないのか、ってずっと思ってた。然るべきところに相談して守ってもらえ、って……。でも、実際に自分が目撃者になったら、どうしたらいいのか……」
「学校で、見たのか?」
「……よく、わかんねえ。ただ、あの怪我はイジメじゃない気がして……。本人も隠してるし、偶然見ただけで」
 偶然、というのは、勿論嘘だ。多少良心が痛んだが、それよりも、今は聞きたいことがあった。
「去年から同じクラスだけど、友達、ってわけでもない。ここ最近に始まった怪我でもないし、ずっとそんな感じみたいだ。怪我の多い奴だが入院はしたことないし、特に落ち込んでる様子もなくて……俺の勘違いかもしれない。……だから、あいつが相談してこない限り、すぐに何かする、とかはねぇんだけど……親父はこういうとき、どうしてるのか知りたくて」
「成程……」
 親父は、腑に落ちたような表情をして、手にしていた湯呑みの茶を一口啜った。
「……あの母子は、新大久保の奥田医院の院長からまわってきた二人でな……気づかない振りをして、手当てしてやってくれ、と頼まれた」
「気づかないフリ、って……」
「保険が、ないんだ。それ以上に、あの二人は、もう3軒も病院から逃げてる。医師がその話をすると、きまって、それ以降、二度と足を運ばなくなるんだそうだ」
 親父は、淡々と、奥田院長から聞いたその母娘がこれまで辿ってきた道のりを語った。
 詳しいことは語らないが、おそらく日本の生まれではなく、不法移民の可能性もあること。度重なる怪我を見かねて、これまで何人もの医師が力を貸そうとしたが、そうするとひどく怯えて二度とその病院には行かなくなること。奥田院長が長い時間をかけて心を開かせようとしたが叶わず、あるときからパッタリと来院しなくなったこと。
「原因がわからず、スタッフに事情をきいたところ、若い看護師が見かねて家庭内暴力の電話相談チラシを手渡してしまったことが判明したらしい。奥田先生は、二人が気になって患者のアパートまで出向いたが会ってもらえず、仕方なく、次から治療が必要ならこちらを訪ねろ、とうちの病院の住所を書いたメモをドアの隙間から差し入れたそうだ」
「……なんで、そこまで」
「よほど、過去に怖い目に遭ったんだろうな。誰かが、彼らを助けようとした。その手に縋った結果、さらに悲惨な現実に晒された……周囲が中途半端に手を出したばかりに、加害者の怒りを買い、逃げた先の住所まで突き止められ、更なる地獄に叩き込まれた例はいくらでもあるからな……」
 あくまで推測だが、と、親父はまたひとつ溜息をついた。
「俺がこうして見て見ぬ振りをし続けた結果、明日あの母娘が殺されたことを新聞で知ったら、俺は多分一生後悔するだろう。……たいして残ってもいない人生だがな」
「……それは、親父のせいじゃないだろ。そもそも、母親は明らかに怪我を負わされてるじゃないか。他人がやれば傷害事件だ。なのに、加害者が家族だからって理由だけで、行政も司法も何もできないのか?」
「海外には、家庭内暴力を取り締まる法律もある。日本もじきにできるだろう。でも、問題はそこじゃない。もちろんその法律で救われる命もあるだろうが、そもそも、手を差し伸べられることを望んでいない人間に対しては、どうしようもないんだ……。医師は所詮他人だ。患者が心の傷を見せることは少ない。……ただ、気にかけている、と、伝えることはできる。何も聞かなければ体の傷は見せてくれるというなら、どんな時でもそれを治療することで、大切な命のひとつだと伝え続けることはできる。……何も詮索せずに、時間外でも受け入れる理由は、それだけだよ」
 彼らのことを気にかけている人間がいる。
 それを伝え続けて、いつか、本当に逃げ場を失い困ったときに、思い出してほしい。
「……なんてな。格好つけても、俺はこの通り、いつこの病院を廃業するかもわからん身だ。……だから、俺が動けなくなった後に、もしあの母娘が訪ねてきたら、教えてやって欲しい。奥田先生は二度と詮索はしないといっているから、安心して通院していい、と。……それを、お前に伝えておきたかった」

 親父の話を聞きながら、俺は、矢代のことを考えていた。
 手を差し伸べられることを望んでいない人間に対しては、どうしようもない……。
 あいつの目は、いつも遠くを眺めているようで、時折、同じ時間、同じ空間にいるのに、どこか違う時間を生きているように見えてしまう。
 普通、俺たちの年齢なら、もう少し精気というか、生命力を感じるものなんじゃないだろうか。
 
「……お前のクラスメイトの件だが。本人のカラ元気は、あてにならない。人間ってのは怖いもんでな……恐怖や痛みに晒され続けると、それに慣れる。慣れれば、平気な顔も簡単に出来るようになる。よく見れば違和感があることもあるが、それに頼るのは危険だ。
 それよりも、家庭内暴力は、何かのきっかけでエスカレートすることがある。だから、お前から見た怪我の度合いが酷くなったら注意しろ。たとえば、学校を休み始める、とかも大事なサインだ。怪我が隠しきれなくなって、かといって家にも居られず、外で時間を潰してるケースがある。お前の高校は、本人からの欠席連絡も受け付けるだろう?」
 そういえばそうだった。うちの学校は、体調管理も含めて、学生個人の自主性を尊重する、というのをモットーにしている。勿論頻繁に欠席すれば親に連絡されるが、成績も優秀で、ほとんど欠席しない矢代が自分から欠席連絡をしてきたとしても、まず教官は疑わないだろう。
「今までがギリギリ致命傷には至らなかったのだとしても、もし本当に家庭内暴力なら、常に命の危険があることに変わりはない。……お前がそのクラスメイトの信頼を得て、もう少し詳しい話を聞けるようになるのが一番確実だが……それには相当な覚悟も要るぞ」
「……ああ、わかってる。……サンキュ、親父」


 俺は、あいつに何かをしてやりたいのか。
 それは、同情なのか、それとも、あいつの秘密を暴いてしまったことへの罪悪感なのか。
 何も、わからない。

 瞼の奥に、火傷で引き攣れた皮膚の残像が残っていた。
 俺は、火傷の痕に異常な執着がある。目の前で見ると、もっと見たい、触りたい、という欲求を抑えきれない。
 あれを、もう一度見たい。
 ……俺があいつに関わろうとするのは、それが理由なんじゃないか?

 矢代に対して、他のクラスメイトとは違う感情があるのはとうに自覚していたが、そんな違和感も吹き飛ばすほどの「特別」が更に追加されてしまった今、たとえ何か行動を起こしたとしても、自分の行動に、なんの正当性も見出せないような気がした。

『それには相当な覚悟もいるぞ』

 その言葉は、それが経験者の言葉だからこそ、重みがある。
 俺に対し、どうしろ、とも言わなかったのも、そのためなのだろう。

 


 俺の母は、昔、付き合っていた男に暴力を振るわれていた。
 しかし、この件は、公にはなっていない。下手につつけば、また昔の男に居場所を特定されかねないからだ。
 父の苗字は、昔は石原だった。父は、影山家の跡取りの内縁の妻から生まれて、母親の姓で育った。格式を重んじた影山家が、俺の祖母との結婚を許さなかったらしい。ただ、二人の仲は悪くはなく、父も十分な教育を受けて育ち、医者になった。
 俺の母と知り合ったのは、父が地方の学会のため出張に出ていた最中のことだった。会場の大学に向かう途中に、アパートの前を裸足で歩いていた女性を保護し、ひどく怯えていたのでそのまま自分の宿泊するホテルに匿った。最初は、警察に届け出て対応を任せるつもりだった父は、暴力をふるう男からの逃亡に何度も失敗していることを母から聞き、とにかく一度東京まで逃すことを決めた。
 個人情報の保護、なんて言葉が存在しなかった時代の話だ。
 外面だけは良かったその男は、学会のプログラムに記載された父の名前と所属機関名を頼りに、当時父が住んでいたアパートを割り出して追いかけてきた。
 見つかるたびに何度も住む場所を変え、職場も変え、最後には結局跡取りができなかった影山家を継ぐ条件で父が影山家の養子に入り、苗字を変えることで漸く男の追跡を振り切ったのだ。
 しばらくして、母の妊娠が判明し、二人は籍を入れた。
 その時既に、父は五十を超えていた。

 父は自分にとって白馬の王子様で、怖い魔王から助けてくれた。
 俺が幼い頃、母はよくそんな話をした。だからといって、お前もそういう男になれ、と言われたことは一度もない。
 それがどれほどの覚悟と犠牲を伴うものか、知っていたからだろう。
 母の胸には、一面に、蝋燭で焼かれた火傷の痕があった。

 普通、蝋燭プレイには、専用の低温蝋燭を使う。
 だが、あれほど酷いケロイドになるなら、その男は安い洋蝋燭を至近距離から垂らして、母が悶絶するのを眺めていたのだろう。何度も焼かれて、ひきつれた皮膚が、乳房を覆っていた。
 しかし、そんなことが分からない子供の俺には、乳房を覆うピンク色のケロイドの痕はつるつるとして、とても綺麗に見えた。生まれた直後から、それを眺めて触りながら乳を飲んでいたわけで、俺にとっては、そこにあるのが当たり前のものだった。
 俺のケロイドに対する異常な執着の根っこがそこにあるのは、おそらく間違いないだろうが、別に母親の乳房にもう一度触りたいわけじゃない。
 ただ、艶かしい薄ピンクのケロイド状の肌の色を見ると、性的に興奮する、というだけだ。

 小学校に上がる頃には、父の書斎の専門書をこっそり開いて、その症例写真を眺めるのが密かな楽しみになっていた。
 自分でもおかしい趣味だというのは気づいていたので、両親にはバレないように注意していたが、たまに俺が父の本を盗み読みしていることには早々に気づかれて、父はきちんと元の位置に戻しておくならいつ書斎に入って本を読んでもいい、と言ってくれた。
 流石に、ケロイド写真で興奮しているだけ、というのは申し訳なくて、他の部分も眺めるうちに、医者という職業も悪くない、と思うようになった。
 ……その一方で、母にどんな虐待が加えられていたのかも、その写真を通して知ることになったが。
 小学校三年生の頃の話だ。
 当時も今も、俺には、恋人の心身を傷つける虐待を行う人間の気持ちはわからない。
 わからないのに、この趣味が行き着く先は、そのような人間と同じところにあるような気がして、俺は父の専門書を盗み見る事をやめた。
 
 
 中学に上がり、それが虐待の中でも性虐待と呼ばれる範疇のものであることを知った。
 知ってしまえば、自分がケロイドに性的興奮を覚えるなど、到底口にできるはずもなかった。
 密かに皮膚科医になりたいと思っていた俺は、父の病院を継げるから、という理由で、内科医になる、と両親に告げた。
 ……本当は、怖かった。
 自分のケロイドに対する異常な執着が、いつか、取り返しのつかない結果に繋がってしまいそうで……。


 おまえのことを、気にかけている人間がいる、と。
 そう伝えることで、何かが、変わるんだろうか?


 生ぬるい夏の夜気の中、不意にひんやりと頬を撫でていった一陣の風に、つかみどころがないまま、印象だけを残していくあいつを思った。

真夜中の鳥 1 (影山)

 

 その日はとにかく蒸し暑い日で、朝から親父はひどく怠そうだった。

 

「こういう風がなくて、蒸している日が一番危ないんだ。高温なのに湿度が高くて汗が乾かないから、体の芯に熱がこもる。こまめに水分をとるんだぞ!」

「分かってるよ……今日は球技大会だから、もう昨日から水筒凍らせてるし」

「球技大会か……今日の気候だと、倒れる奴が出るぞ……」

 うちの学校は何故か体育教師の権限が強く、校則はユルいが体力増進の面ではかなりスパルタだ。月曜朝礼の校長の話が長く、40分を過ぎることもザラにあるので、1年のうちはその間立っていられずに倒れる奴が続出する。それでも、3年に上がる頃には、立ったまま足りない睡眠を補うくらいのことは朝飯前になるので、人間鍛えれば何でもやれるようになるものだ。

 そんな学校なので、球技大会で倒れる奴が出そうだからといって中止にするとは到底思えないが、脱水も熱中症もシャレにならない。

「ちゃんと、まめに水分はとるよ。……親父も、体調万全じゃねぇんだから……あんま無理すんなよ」 

 念の為、凍らせた水筒を2つスポーツバッグに突っ込んで、家を出た。

 

 球技大会、と言えば聞こえはいいが、実際のところは、中間テストの採点時間を教職員が確保するために授業がなくなる日、というのが正しい。

 審判はそれぞれソフト部、バスケ部、サッカー部の部員がやることになっていて、教員もいないので、結果は体育の成績に影響しないが、欠席はペナルティになる。

 そんなわけで、腕に覚えのある奴も、イヤイヤ参加の奴も、午前9時には体操着に着替えてそれぞれのチームの集合場所に集まっていた。

 俺は身長があるというだけで、問答無用でバスケに組み込まれた。今日みたいな風のない日は、体育館の中は蒸し風呂のような暑さになる。それだというのに、長袖長ズボンの体操着で現れた人影に、クラスの全員が一瞬動きを止めた。

「……矢代……オマエそれ暑くねぇの?!」

 先に川西がそう声をかけていなかったら、俺が聞いていただろう。この蒸し暑さだ。絶対途中でへばるに決まっている。
「ん、たぶんへーき? いつもコレだし。俺基礎体温めっちゃ低いし」

「変温動物かよ……」

「そんな感じ? 冬とか、ひなたぼっこしてからじゃないと動けない」

「マジか。そういやお前が汗かいてるのとか、見たことないわ」

 基礎体温が低くて汗がうまくかけないなら、むしろ今日みたいな日は、体温調節が効かなくて危険なんじゃないか?

 そう思ったが、かといって見学は欠席扱いになるし、本人が大丈夫だと言ってるものを食い下がるわけにもいかないので放っておいた。

 試合はその場に集まった全員で、経験や身長を加味しながら、適当にチーム分けして進める。全員が適宜交代しながら参加するスタイルだ。矢代は敵チームのPG(ポイントガード)だった。ポイントガードといえばコート上の司令塔だが、経験を買われたというよりは、たまたま他の面子がその他のポジションに適していただけ、に見える。
 矢代は結構すばしこくて、何度か、こちらの体の隙間をギリギリ狙うような鋭いパスを通された。なるほど、このパスがあるからPGか、と、油断した自分に腹を立てていると、いきなり矢代が3ポイントシュートを決めようとして一度持ち上げたボールを下ろし、チームメイトにパスを回した。

 今のタイミングは……そのまま打った方が得点に結びつく可能性が高かったはずだ。

 頭上に掲げた左手にボールの重さが乗った瞬間、一瞬、矢代は眉をしかめた。おそらく、また手首を痛めているのだろう。打てないと判断して、味方にボールを回した。そんな風に見えた。

「リバウンド!」

 点数はこちらが負けている。前半の残り時間はあと1分。このへんで点差を詰めておかないと、後半がしんどい。

 体格で押し込んでリバウンドをとったが、味方に出したパスは敵にスティールされた。その一瞬で矢代が内側に入り込んできて、押し戻そうとした時に事件は起きた。
 矢代の体が、一瞬揺らいだ。危ない、と咄嗟に足を止めたら、汗で滑って逆にそのまま体当たりしてしまったのだ。
 ひょろっと縦に長い体が斜めに傾いで、その側頭部を受け損ねた鋭いパスが直撃した。咄嗟に倒れ込んだ体を支えたが、開いたままの両目は虚空を見つめていて、焦点が合っていなかった。

 これは、ひょっとすると、まずいかもしれない。

「矢代、矢代! 聞こえるか?!  聞こえたら、返事しなくてもいい、できる合図を返せ!」

 頭を打ったら、絶対に揺すぶってはいけない。子供の頃からそう親父に言い聞かされているので、とにかく声をかけ続ける。

 もしかしたら、頚椎をやられているかもしれない、と思った。その瞬間、全身の血が一瞬沸騰して、その後に全て流れ出てしまうような、ぞっとするような感覚が背筋を襲った。

「矢代! ……誰か、先生を呼んできてくれ! 矢代の反応がない!」
 こういうときは、何をしたらいいのか。まず、床に寝かせて、絶対安静だ。……それから、呼吸を確認して……もし息が詰まっていたら気道を確保する。でも、もし頚椎を痛めていたら? 仰向かせて大丈夫なのか?

 そこまで考えるのに、0.5秒もかかっていなかったと思う。床に寝かせようと体を支え直したとき、急に腕の中の体に力が戻った。

「──いい。……聞こえてる」
 存外にはっきりとした声が、その血色の良すぎる唇の隙間から溢れて、視線が緩慢に動き、こちらを見上げて焦点を結んだ。

 少なくとも、意識を取り戻した。そう思った途端、全身の血流が回復して、どっと汗が溢れた。

「すまん、矢代。足が滑ってお前に体当たりしちまった。頭、大丈夫か」

「──平気。……どっちかっつーと、暑さにやられた。──ちょっと休めば治る」
 直前に体が傾いだのは、そのせいか。こんな日に長袖なんか着てくるからだ。ほっとした勢いでそう咎めそうになったが、こちらの肩に手をかけて起き上がった矢代の襟の隙間から一瞬見えたものがあまりにも衝撃的で、そんな愚痴も吹っ飛んだ。

 

 あれは……根性焼きの痕じゃないのか?
 それも、一つや二つじゃない。

 

「川西、もう大丈夫だから、先生呼ばなくていいよ。試合は、悪いけど誰か代わって」

 矢代は自力で立ってコートの外に出たが、若干足元がふらついていた。勿論、大丈夫なわけがない。頭の方が大したことなくとも、今はむしろ熱中症と脱水症が心配だ。

「保健室。付き添うから、少し横になって休め」

「大丈夫だって。壁に寄りかかってしばらく休めば──」

 

 頭の中には、先ほど見えた映像がまだ居座っていた。
 根性焼きだったとして、何故そんなものが体にあるのか?
 去年村岡が危惧したとおり、イジメなのか?
 こんな日にも長袖を着ているのは、もしかして、体の傷を隠そうとしている?

 

「お前、30秒意識がなかった。ボールの直撃受ける前から足元ふらついてたしな。たぶん熱中症になりかかってる。とにかく体冷やして、水分とって休め。濵田、俺も抜けるから、悪いがあとを頼む」

 

 

 

 

 保健室までの道のり、矢代に肩を貸そうとしたが、矢代は最初笑ってとりあわなかった。
 ……やはり、イジメ、には見えない。
 勿論、こいつの何を知っているわけでもないが、もしもイジメを受けていてこの感じなら、こいつの心はとうにぶっ壊れているのだろう。
 どこか人間離れした雰囲気と、もしかしたら既に心が壊れているのかも、という想像に、ぞっとした。
 だが、足元が怪しい。
 転んでもう一度頭打ってバカになりたいのか、と言ってやったら、漸く諦めた。

 男子の体は、高校時代にかなり骨格も肉付きも変わるが、矢代の腕はまだ華奢で、筋肉のつき方も薄かった。
 肩に右腕をかけさせて引っ張ると、首筋に当たる腕が矢鱈熱いのがわかる。
 ……やっぱ熱中症になりかけてんじゃねえか。
 とにかく体温を下げる必要がある。
 持参した水筒が役に立った。1つ目は自分が飲んでしまって半分以上が空だったが、2本目はまだ満タンで、ちょうどいい具合に溶けていた。
 保健室は教官が不在だったが、保険委員なのでどこに何があるかは大体わかっている。
 冷蔵庫の横に湯呑みが伏せてあったので、それに冷えたポカリを注いで押し付けた。

「あ───、生き返る…………」
 矢代はそれを一気に飲み干して、嬉しそうに仰向いて笑った。
 折しも、曇っていた空に日が差して、ガラス窓の向こうの明るい光に、そのどこか繊細な感じがする輪郭が縁取られていた。
 ……なにか、見てはいけないものを見たような気がしたが、気のせいだろう。
「そのポカリ、全部飲んでいいから。とにかく、少し休め。俺はしばらくはここにいるから、頭痛がするとか、気分が悪いとか、とにかく何かあったら呼べ」
 汗をかいているボトルをタオルで包んで矢代の手に押し付け、カーテンをひいて、その姿を無理矢理視界の外に追い遣った。

 

 

 日本人離れした白すぎる肌に、醜く引き攣れた薄桃色の皮膚が、淡い陰影を刻んでいた。
 一体、どんな事情があれば、あんな場所にあんな痕が出来るのか。
 そんなことを思う前に、脊髄を、甘い痺れが駆け上がった。
 誰も知らない、誰にも言えない。
 一生、隠し通さねばならない、おそらく死ぬまで無かったことにもならない、俺だけの秘密だ。

 

 

 カーテンの向こうが随分と静かなのが気になって、そっと隙間から覗くと、矢代は水筒を抱えたまま寝入っていた。
 冷たくて気持ちがいいのかもしれないが、氷の塊を腹の上に抱えて寝るのは良くない。
 そっと取り上げても矢代は起きることなく、ボトルを抱えていた腕がぱたりとシーツの上に落ちた。

 その袖口の影に、赤黒い何かが見えた。

 
 その時の俺が何を考えていたのか、今でもよくわからない。
 ただ、結果的には、脈をみる、という行動に繋がったそれが、決してクラスメイトを助けたいだとか、医者の息子として怪我人を放っておけない、だとか、そんな立派な理由ではなかったことだけは確かだ。

 頭の中では、これはやってはいけないことだ、と理解していた。どういう理由だか知らないが、矢代は自分の体の傷を隠したがっていて、そのためにこんなクソ暑い日にも長袖を脱がないのだということは、もはや明白だった。

 

 たくし上げた袖の下には、緊縛痕や打撲痕、薄くナイフで切られたような痕まであった。
 これは……おそらく虐めではなく、家庭内暴力だ。
 顔や手など、見える場所にはほとんど傷がないのに、服の下にこれほどの傷があるというのは、加害者が暴力の痕を隠そうとしているからだ。
 そして、矢代本人も、それを望んでいる。……その動機が、恐怖だったとしても。

 

 

 ただの学生、しかも友人でもない俺に、口を挟む権利はない。

 ましてや、当人の許可も得ずに勝手に体を見た人間に、何が出来る?

 

 

 動脈の位置を探って、脈を測ると、まだ少し速かったがかなり落ち着いていた。
 このまま、しばらく安静にしていれば、大事には至らないだろう。
 元通りに袖を直してやって、冷え過ぎないように、腹にだけ薄いタオルケットをかけてやった。

 

 

 ……リストカットの痕は、なかったな。

 

 

 そんなことを思って、そのことにほっとしている自分に、苛ついた。

 

 

 

 

 

 

 家に帰ってからも、見てしまった映像が脳裏から消えず、晩飯の間もぼうっとしていたのを見抜かれたんだろう。
 食後に親父に声をかけられて、縁側に呼び出された。

「なんだ。ずっと浮かない顔してるが、どうした」

 親父は、元気な頃は決して家庭を顧みるタイプとは言い難かったが、自分の病気が分かってからは、何か気づいたことがあるとまめに声をかけてくるようになった。
 俺の方も中坊のような反抗期からは既に抜けて久しいので、そういうときは逆らわずに従うようにしている。
 こんな時間も、あとどれだけ続くかわからない。

 特に今日は、どうしても親父に相談したいことがあった。

 

 

「……親父はさ、明らかに家庭内暴力受けてる患者が来ても、絶対に何も言わないよな。……なんでだ?」

 

 

 親父は、5秒ほどの間、じっと俺を見てから、小さく息をつき、「座れ」と自分の横の床を視線で指し示した。



「……丁度良かった。俺も、お前に、話しておくことがある」

 

 

 

真夜中の鳥 0 (影山)

 

 誰もいない教室で、そいつは、ただ、ぼんやりと、窓の外を眺めていた。

 開け放たれた窓の外で、雁の群れが、西の空に向かって羽ばたいていた。

 

 中学は中高一貫の私立男子校に通っていた俺が、親父の闘病をきっかけに高校は公立校を受験すると言ったとき、親父とお袋は学費は別に分けてあるから、と大反対した。
 そうはいっても、高い抗癌剤を使うなら金はいくらあっても困るものではないし、本音を言えば、男女共学の生活にも少し憧れて、電車で15分ほどの距離にある公立進学校を受験したら受かってしまった。
 中学の担任は、いくら進学校とはいえ、公立は教師の当たり外れがあるし、医学部を目指すなら転校しない方がいい、と、合格通知を受け取った後にも釘を刺してきたが、入学式初日、満開の桜の下で華やかに笑う女子を見たときには、やはり共学はいいな、と本気で思った。
 思ったはず、なのに、だ。

 クラスで一番の美形が、男って、一体どういうことだ?!

 

 髪は亜麻色に近い薄茶色。うちの学校の校則は基本ゆるいが(それもここを選んだ理由のひとつだ)、髪染めは禁止だ。でも、誰もそのことを揶揄する者はいない。
 眉も同じ色、瞳も灰色味を帯びた琥珀褐とくれば、染めているわけではないことは一目瞭然だ。しかも、一重瞼のくせに、どこか日本人離れした顔の造形。
 ……ハーフ? いや、クォーターか?
 クラスの人間も、遠巻きにしてそいつを眺めている。本人は、そんな空気もまったく我関せずといった体で、ぼんやりと頬杖をついて窓際の席から外を眺めている。それがとてつもなく絵になる。まるで雑誌のモデルみたいだ、と思った。
 ……まあ、この外見じゃ、他人からジロジロ見られるのなんて、慣れてるんだろう。
 不躾な視線を投げていたことに気づいて、そんな自分に腹が立った。
 慣れてるからって、珍しいものを見るみたいな目で見られるのは、きっと面白くないに違いない。

 女子が数人、ひそひそと声をかけあってそいつに近づいていった。
「ねえ、矢代くんってさ、ハーフ? いいな〜この髪の色カッコイイ!」
「中学はどこだったの? 同中の子いないんだ?」
 すっかり女子の人気者だ。そりゃそうだろう。あの容姿で、モテないわけがない。
 と、そのとき、そいつが少し身じろぎした。その、反射的に距離をとろうとしたかのような体の動きが、なぜか目に焼き付いた。
「ハーフじゃなくてクオーター。母親がロシア人とのハーフだから」
 少しハスキーな声が、二つ目の質問を無視してそう答えるのを聞いた。熱のない声だった。
「えー! かっこいい!!」
 女子というのは、あの高い声をどこから出しているんだろう。
 思わず眉を顰めたとき、そいつの目が、ふと俺を見た。

 

 距離があったから、そんなに細部まで見えたはずがない。

 それでも、何故か、硝子のような瞳だ、と思った。

 ……こんなにも、無感動で綺麗な瞳を、俺は生まれてからただの一度も見たことがない、と。

 

 

 

 絶対女にモテるだろう、という予想だけは当たったものの、それ以外の全てがどこかちぐはぐな印象に気づくまでに、2ヶ月ほど要した。

 うちの学校は文武両道がモットーなので、部活は全員強制参加だ。しかしまあ、諸所の理由でそういう活動をしたくない人間もいるわけで、一応学校側も逃げ道は用意している。

 この学校の場合、映像研究会がそれに相当するらしかった。

 活動は、不定期に開催される映像鑑賞会だけ。それも自由参加だ。
 その映像も流行りの映画などではなく、顧問の趣味がバリバリに入った海外のインディペンデント映画だったりするから、部員数だけは立派でも、ほとんどがサボリで出てこない。
 生徒からは、映研と呼ばれることはほぼなく、「帰宅部」の別名で通っていた。

 クラスメイトにも自分からは殆ど話しかけない矢代は、最初の頃こそ演劇部やら写真部やらに勧誘を受けていたが、それらを全てスルーして映研に入部した。

 空手部に入部した俺は、雨の日の体力増進メニューで視聴覚室の横を通ることが度々あって、そんな時に、窓際の席に座ってぼんやりと画面を眺める矢代の姿をよく見かけた。

 ただ、空を鳥が渡っていく姿を映し続けている、白黒の映像。
 それを、ぼんやりと頬杖をついて、あの硝子のような瞳で見つめ続けている横顔が、なぜか強く印象に残った。


 空気のような存在、といえば、クラスに一人や二人はいるものだが、矢代はそれとは似て非なる存在だった。

 成績は常に上位に名を連ねている。体育は見学が多いから体が弱いのかと思いきや、たまに球技でチームを組んだりすると、運動神経は決して悪くはない。夏の水泳は見事全部見学していたから、カナヅチではあるのかもしれないが。

 顔がよくて、成績も運動神経もよければ、普通はクラスの中心になるだろう。にもかかわらず、矢代には不思議と存在感らしきものがなかった。

 夏が終わる頃には、年度の初めよりは喋るようになっていたが、それでも、気づけば、いつの間にかその会話の輪から外れて、ぼんやり外を見ていたりもする。

 くだらない会話、と思っているのを隠しもしないその表情に、むっとする奴もいただろう。それでも、なぜかイジメの対象にはならなかった。

 いや、クラスの外や見えないところでは、色々あったのかもしれないが。

 何度か、顔に殴られた痕をつけて登校してきたことがあった。ただ、それでも、本人が凹んでいるようには全く見えない。むしろ、どこか機嫌が良さそうだ。

 手を出した奴も、これでは肩透かしを食らっただろう、と思った。

 

 水のような、風のような。

 矢代がぼうっと頬杖をついて外を眺めている姿は、人というよりは、そういう自然現象のように思えた。

 

 

 

 

 一年の間で、まともに喋ったのは数度だけだった。

 もうすぐ今年度も終わる、という2月になって、担任の村岡は、どういうわけか、矢代のことについて俺に声をかけてきた。

「矢代のことなんだが、……なにか、もしも元気がなさそうだったら気遣ってやってくれないか?」

「……なんで、俺に」

「まあ……お前は家が開業医だし、そういうのはわりと目端がきくだろう?」

 だとしても、なんで今頃なんだ。もう1年目が終わるじゃないか。

 怪しさしか感じられない要請を受けて、つい、こちらも身構えた。

「……あいつ、何か問題抱えてんですか? ……イジメ、とか」

 だいたい、学校という組織が重い腰を上げる時には、事態は既に取り返しのつかない泥沼に陥っていることが多い。

 俺の勘では、イジメ、ではないような気がしたが、気づいた現象そのものにはそれに近いモノを感じていたので、一応万が一を考えてそう返事をしてみた。

 村岡は、ひどく真剣な眼差しで、こちらに覆いかぶさるような形で声をひそめた。

「思い当たる節があるのか?」

「……いや、そういうわけじゃ……。ただ、妙な感じの怪我が多いな、と思って」

 微妙に片足をひきずっていたりとか。腕の可動域が狭くなっていたりとか。
 クラスメイトの多くは気づかないだろうが、俺の親父は内科医といいつつホームドクターのようなこともしていたから、俺は病院でたまにそういう患者を見ていた。

 運動部なら普通にあり得るレベルの故障だが、矢代はほぼ帰宅部だ。

 勿論、そうやって空いた時間を使ってスポーツクラブにでも通っているのかもしれないし、なにより本人が虐められて怖がっているようには見えないので、あまり考えないようにしていたのだが。

 村岡は、ひとつ、大きな溜息をついた。

「……やっぱり、お前もそう思うか……」

「先生が直接聞けばいいじゃないですか。俺、別にあいつの友達ってわけでもないですし」

「何度かカマはかけてみたんだが、笑い飛ばされるばかりでな……。これは絶対にオフレコにしておいて欲しいんだが、こないだの1回目の進路希望調査で、下の方に、悩みを相談したい相手の名前書く欄があっただろ。あれ、矢代はお前の名前書いたんだよ。3つあった空欄のうち、一つだけな」

 正直言って、完全に寝耳に水の話だった。俺は、クラスの他の人間よりも、よっぽど矢代とは話していない。むしろ、避けられている、と思っていたからだ。

「……そういう個人情報、生徒に漏らすのはどうかと思いますが」

「お前がそういう性格だから、特別に喋ってんだよ。お前はあのアンケート3つとも空欄だったから、片想いの三角関係になる心配もないしな……」

「何ですかソレ気色悪い」

 

 口ではそう言ったが、正直、妙な気分だった。

 これは、もしかして、嬉しい、という感情なんだろうか?

 あの、水みたいな、風みたいな、透き通った蜉蝣みたいに、殆ど人間臭さを感じさせない矢代が、俺の名前を書いた。

 たんに、面倒くさくて、今現在矢代の前の席に座っている俺の名前を書きつけただけかも知れない。

 それでも、多分避けられている、と思っていた相手にとって、自分はなにかしらの意味を持つ存在だったのだ、という感覚は、どことなく甘酸っぱい感傷を生んだ。

 

 

 

 それからしばらくして、理科の実験で矢代と組むことになった。

 矢代は、どうも左手首を痛めている様子だった。蓋の固いビンが開けられない。開けてやったら、「流石空手部!」と茶化された。

 ……やっぱり、イジメ、には見えないんだが……。

 でも、こんなに故障が多いのは、やはり何か問題を抱えているのかもしれない。

「……お前さ、進路どうすんの?」

 唐突にそんなことを聞いてしまってから、何聞いてんだ俺、と猛烈に焦った。

 友人でもないのに、そんな個人情報、簡単に聞いていいわけがないだろう。

 村岡が「進路希望調査のアンケートで」とか余計なことを言ったからだ。クソ!

 矢代は、一瞬、ぽかんとした表情で俺を見上げていたが、すぐにその表情を消して、薄笑いを口元に浮かべた。

「お前は? どうすんの?」

 聞かれて当然だ。とはいえ、俺は最初からどの道に進むか決めていたから、別に迷うことはなかった。

「俺は理系。入学した時から決めてた。本当は理系特進クラスに行きたかったんだが、そっちは推薦で落ちて」

「ヘェ………お前、成績悪くないじゃん。特進ってそんな難しいの?」

「……試験当日の朝に食ったカツ丼で腹壊してな……」

「なにソレ、マジウケルw」

 矢代は、一体俺は何故こいつに水だの風だのの印象を抱いていたのか、と疑問に思うほど、盛大に腹を抱えて笑いこけた。

 整いすぎのきらいのある顔が、完全に崩壊している。

 試験落ちた、ってハナシに、普通、そこまでガチで笑うか?!

「いいんじゃね? リケイ。お前、文系ってガラじゃねえし」

「なんでだよ。別に文系科目も不得意じゃねえぞ」

「お前現代文弱いだろ。30点〜♪」

「……はぁ?! なんで知ってんだよ!!」

「こないだ、後ろから見えた❤️」

「人の答案覗くな!」

「ワリィワリィ! ワビに現代文教えてやろっか?」

「いらんわ!」

 

 この間の中間試験は、なぜか読みを悉くハズして、惨々たる成績だったのだが、もともと平均点も50点の難問だったのだ。だが、その試験でも、矢代はクラスの上位成績者の中に名前を連ねていた。

 ガリ勉タイプにはまったく見えないのだが、家で相当勉強しているのかもしれない。

 だとしたら、尚更、何故こんなに怪我が多いのかがわからないが。

「……で、お前はどうなんだよ」

 ここまで茶化されたら、なんだか遠慮する必要も感じなくなって、単刀直入にそう聞いてみた。

 この学校では、普通科の学生は2年進級時に文系、文理系、理系に分かれて、卒業まで違うカリキュラムを履修することになる。1〜2組が文系、3〜5組が文理系、6〜7組が理系で、それぞれ私立大、国公立大の理系以外、国公立大の理系学部への進学を目指す内容になっている。

 正直、俺たちの年齢で、将来何を仕事にして食っていくかを既に決めている人間は決して多くはなく、俺みたいに最初から医学部狙いの人間はかなり少数派だ。

 それでも、今週中には、自分がどっちの方向に進むのかを決めて、進路希望用紙を提出しなくてはならない。

 それは、まだ16歳の俺たちにとっては、普通は結構なプレッシャー……のはずなのだが。

 

 矢代は、まるで他人事のように、窓の外を見上げて笑った。

「そーだなぁ……決めるの面倒くせぇなぁ……もう、サイコロで決めるか…………」

 

 

 

 

 放課後、理科の実験室にメガネケースを忘れたことに気づいて実験室に戻ると、そこに矢代がいた。

 誰もいない教室の、一番後ろの机の上に腰を下ろして、ただ、ぼんやりと、窓の外を眺めていた。

 開け放たれた窓の外に、雁の群れが、西の空に向かって羽ばたいてゆくのが見えた。

 俺は暫く、声を掛けることもできなくて、その場に立ちすくんだ。

 

 ……断じて言うが、俺は、付き合うなら絶対女子がいいし、男を綺麗だと思ったこともない。

 それでも、その光景は、その俺の常識を根底から覆しかねないほど、強烈な印象を生んだ。

 

 

 今日の昼間には、ただのクソ生意気な同級生、と、確かに思ったのだ。

 俺が矢代に密かに感じていた、どこか人間離れした印象は、あの口の悪さと、ぶっ壊れたようなバカ笑いで完全に砕け散った、と思った。

 それでも、こうして黙って外を眺めている後ろ姿は、まるで、今にも夕日の空に融けてしまいそうに見える。

 やはりこいつは、空気で出来ているんじゃないか、とつい思ってしまう。
 落ちかけた夕方の太陽が、その黒い制服の向こうに隠されていて、黒々とした輪郭から光の筋が幾重にも溢れていた。

 大きな、空気の網目で出来た羽を広げた、季節外れの蜻蛉みたいに。


 ……脆すぎて飛べない羽を持った蜻蛉は、行くあてもなく、茜色の空を見上げることしか出来ない。


 柄にもなく、そんなことを思った。

 

 

 

 扉を開けた音で、俺が部屋に入ってきたことには気づいていたんだろう。
 矢代が、ゆっくりとこちらを振り返った。

「忘れモノ。コレだろ?」

 その手の中に、俺のメガネケースが握られていた。

「……ああ。ありがとな」

 忘れたのは引き出しの中だったはずなのに、どうしてそれに矢代が気づいたのか、よくわからない。

 そもそも、こいつは、何故、放課後に一人でこんな場所に居たんだろう。

「……何してたんだ?」

「うん? ……何となく。」

「……今日は、早く家に帰らなくてよかったのか?」

「……なんで?」

「……だって、お前、早く家に返って勉強するために、映研入ったんだろ?」

「…………」

 俺の微妙な反応を、矢代は半ば面白がって見ていたのかも知れない。

 不意に、昼間の快活さを取り戻して、矢代は笑った。

「ウッソ! 俺も、忘れ物。……じゃあな、カゲヤマ、……また明日!」

 

 

 忘れ物、というのは、多分、嘘だ。

 何故かそう思って、俺は、渡されたメガネケースを握りしめたまま、放課後の理科実験室に呆然と立ち尽くしていた。

 

 

 

 サイコロの悪戯なのか、なんなのか。

 矢代が理系に進み、残り2年間を同じクラスのクラスメイトとして過ごすことになったのを知るのは、この日から2ヶ月後のことになる。

 

 

 

真夜中の鳥 1 (影山)に続く

 

 

ーーー

この話は、「真夜中の鳥 0(矢代)」から始まるシリーズと対になっています。

 

真夜中の鳥 (矢代) あとがき

 ※各ページのタイトルの下にある「真夜中の鳥」カテゴリーをクリックすると、シリーズ一覧が見られます。
 

 以前、noteに、結局影山は矢代のことをどう思っているのか、を考察した記事を書きました。
https://note.com/preview/n8651b33c5b77?prev_access_key=f4c8d36cb92630a26a5ca5e09104fce4

 そのとき、影山は、実は矢代のことが最初から気になっていたが、矢代が抱える闇の濃さに恐れをなして、自分のその気持ちを封印してしまった可能性もある、ということに触れました。

 そこでは、この先は二次創作の領域なので、ということで深掘りは避けたのですが、こちら側の可能性を掘り下げていくと結構面白いことになりそうだ、というのに気づき、じゃあ二次創作をやってみようか、という気になってしまいました。

 ところが、いざ影山視点の話を書こうとすると、これがいきなりは書けない(笑)。それで、それじゃ先に矢代視点の話を、原作の「漂えど~」に沿って書いてみよう、と思い立って、書き始めたのがこの「真夜中の鳥」です。

 まだ光が見えず、どこへ向かって飛んでよいのかわからない真夜中の鳥に、高校時代の矢代と影山を重ねてみました。なーんて、実は、毎回タイトルはかなり適当なんですが(笑)。真夜中は1日の始まりなので、ま、最初はそれでいいか、くらいな感じで。

 で。

 第5章まではともかく、6章以降でせっかくのヨネダワールドが台無しだ! と感じる方もいらっしゃるだろうと思います……
 ご批判は真摯に受け止めますが、ひとつだけ(いやひとつじゃないか)、言い訳をさせてください。

 私には、あの「漂えど~」から、どうやって36歳の矢代さんになったのかが、どうしても想像できなかったのです(涙)。
 本当に高校時代の思い出があれしかないのであれば、この人は一体どうやって、この苦しい生を生き抜いてきたんだろう? って。
 私にとって、矢代さんの本質を表す言葉って、2巻の病院のベッドの上で影山に呟いた言葉なんですね。

「走馬灯っつーの? 良いことが一つも出てこねーの。あんだぜ? ひとつやふたつや……みっつや……よっつ……
(ヨネダコウ「囀る鳥は羽ばたかない」2232P 大洋図書
 
 これを見た時の私、文字通り床にひれ伏しました……(涙)
 これだけ酷い目に遭ってるのに、手の中に、数えるほどの幸福の記憶を大切に握りしめて、自分にもよいことがあったのだ、と……(涙)
 まさに、運命に左頬散々張り飛ばされて、なお右頬差し出す、みたいな。

 どれほど運命に翻弄されても、あらがうでもなく、腐るでもなく、淡々と毎日を生きる。それでいて、ちゃんと、その歩みの中に、幸せの種を見出す優しさを持ってる。
 それは、もともと、矢代さんが持って生まれた性質かもしれないけど、それが歪まずにあの年まで守られたのには、何か必ず理由があるはずだ、と思った。
 そして、その理由として考えられるのは、やはり影山しかいなかったんですよ。
 影山の何かが、矢代さんが持って生まれた美質を、あの年齢まで守り通したんだろう、と。
 矢代さんは、自分の体を簡単に投げ出してしまいますが、それは本当に欲しいものを手に入れるためではない。同じ理由で、命も投げ出さない。
 欲しいものを手に入れるために自分を切り売りすることをやってしまうと、魂が穢れてしまいますが、体の関係は楽しみと割り切って、それだけは絶対にやらなかった。

 それは、やはり高校時代に、欲しいもの(=愛情)は、そういうことでは手に入らない、と、影山との関係を通して学んだから、だと思うんです。

 影山が、自分の出来る範囲で、ちゃんと矢代さんに真剣に向き合ったから。
 体も命も差し出さなくても、優しさを向けてくれる人がいる、ということを知ったからだと思うのですよ……
 たとえ、それが、自分の望んだ形の愛情ではなくても。

 もうひとつは、影山が、矢代さんがヤクザになってしまった、と知ったときに、1発殴った、という原作の記述です。

 「漂えど~」の中に書かれているような、お互いに少し遠慮があるような距離感の付き合いでは、殴るまでするようには見えなかったんですね。

 影山が、自分より体格の細い矢代に暴力を振るうとしたら、それは多分、本当に腹に据えかねた何かがあったからなのかな、と思って、こんな形になりました。
 あれだけ困ったら頼れと念押したのに、と裏切られた気分になったのかな、なんて。
 もっとも、影山結構簡単に手出すから(久我のときも矢代さんに手上げてたし)、そこはあんまり掘り下げなくてもよかったのかもですが(汗)
 影山を空手部にしたのは失敗だったかなー(^^;)<でもそうでもしないと、久我もノせちゃう喧嘩の強さの理由がわからない


 ……そんなわけで、こんなエンディングになりました。
 言い訳、おしまい!
 

 虐待のトラウマについて。

 二次創作とはいえ、書くからには、やはり虐待の後遺症の問題は避けて通れんだろうと思い、原作では敢えてうまくぼかしておられる矢代さんのトラウマの問題について、第3章で少し掘り下げることにしました。
 原作では、性行為中に愛情を向けられると吐き気がする、という形で僅かに触れられているのみですが、あれだけ深刻な環境で育った少年が、それだけの後遺症で済むとは到底思えなくてですね……。いくつか追加で、あまり原作とかけ離れた形にならないようなトラウマを付け加えてしまいました。ただ、このうちのいくらかは、少年から大人になる過程で解消(または寛解)されたと考えています。そこには、やはり影山の存在が大きかった、というふうに、読めるように書けていれば良いのですが。

 

 じいさんについて。
 極力オリキャラは出さずにやろうと思っていたのですが、医学部に行った影山と同じクラスということは矢代さんも進学校または進学クラスにいたはずだ、ということになりまして。
 塾とかはとても行けなかっただろうし、自力で勉強、となると、少なくとも子供時代に勉強への興味を育ててくれた大人がいないと難しいんじゃないか、と思い、一人だけオリキャラ出してしまいました。
 小学校3年から性虐待を受け、母親にも守ってもらえなかった子供が、どうやって生き抜いてきたか、ということを考えたとき、どこかで良い大人に出会った経験がないと、なかなかあんなふうには適応できないだろう、と思いまして、そのへんもココに全部突っ込んであります。

 あと、捏造設定として、矢代さん勝手にクォーターにしてしまいましたが、生粋の日本人では、やはりあの髪の色はなかなか出ないだろう、ということで(汗)。
 (カラー見ると目の色もたぶん琥珀色ですよね)



 矢代さん貧乏設定について。
 原作で、1万円札を8枚まで数えたところは書かれているので、勝手に母親は毎月8万チョイを置いていく、と考えました(まさか2ヶ月に1回とかじゃないよな……?(汗)書き終わっといてなんだけど。。)
 住む場所にもよるでしょうが、単身用ワンルームならともかく、たぶん世帯用の2LKくらいのアパートだと思うと、家賃と光熱費だけで6万円超えるんじゃないの? と思いまして。あ、適当に、現在から遡って矢代さんは1982年生まれくらいかと思ってるんですが、そうすると高校生の頃は97~99年くらい、子供の頃から住んでいたアパートなら当時はバブルでしたから、もっと家賃高かったかも。
 そうすると、残り2万円弱で、学費出して、教科書やら参考書やら買って、学校までの交通費も払って、そんなん食費ないやん! となりまして……
 当時はスマホはありませんでしたから(まあポケベルやPHSはあったけど、その辺には手出さなかっただろう)、その分の費用はないですけど、にしてもそれで生活って無理でしょ、、、ってことになり、あーこりゃパパ活で生活費補ってたな、って話になってしまいました……(汗)
 矢代さんが金稼ぐの上手いのは、やっぱ、金で苦労したからだと思うんだよね。

 

 歌オチについて(笑)。
 たんに、ワタクシが古い昭和の人間で、自分が同人始めた頃に花盛りだった歌オチを思う存分やってみたかった、というのもありますが、そもそも、矢代さんがなぜ懐メロに詳しいのか、というのが、わからなかったのです。
 普通は懐メロって、親が好きとか、そういう周囲の大人や年上の人間から入ってくるもんなんじゃないかと思ってて、親との関係が希薄で、とくに年長者との付き合いがあるようにも見えない矢代さんが、どうやってその界隈に触れることができたのか? というのが、ずっと疑問だったのですね。
 まあ、寝る相手が知ってた、という可能性はあるかもだけど、ひたすら痛いSMプレイに興じててそんな懐メロ教えてもらえるような雰囲気にはとうてい見えなかったし。
 というわけで、影山のお父さんにミーハーになっていただくことになってしまいました(笑)

 はっ、、、もしかして、三角さんが教えた?!(笑)
 

 歌を多用したのにはもう一つ理由があって、あれは、いくつかは影山から矢代にあてた手紙だからなんですが、そのへんは、影山編に入ってから書くことにします。

 使った曲が、もしかしたら出典が分かる人がいるかもしれないラインナップでして、白状すると、私が高校時代に大好きだったサークルさんが使っておられた曲です。家がクラシック音楽以外あまり流せない空気だったので、そういうことでもないと、J-Popsを知る機会がなくて。でも、おかげで、たくさんの名曲を知ることができました。
 Womanだけは例外で、これは、最初から使うと決めてました。
 矢代さんの中に眠っている女性的な感性が、影山に対して叫んでいる内容そのものだと思ったので。
 ここに持ってくるのは、ヨネダ先生ご自身が紹介されていた菅野よう子の”beauty is within us”であるべきだろう、というご意見もあるかと思いますが、先生曰く「今現在は矢代の底の底に沈んだ感情」とのことなので、高校時代にはもう少し変質を遂げていたのかな、と思ったのと、ここではもう対象は母親ではなく影山だろう、と思ったので、こちらになりました。
 性虐待が始まった年齢にもよりますが、小学校3年生というのはかなり早い部類に入ると思ってて、その頃にそういうことをされてしまうと、自分の性別への認識が曖昧になる、というのは十分あり得るかな、と思っています。その時代はまだ、なんのかんのいっても、親という一番近い大人の言葉が絶対ですから。
 頭では自分の性を理解しているし、別に女になりたいわけでもないけど、ふとした拍子に感じる衝動や感性に、女性的なものを感じてしまって、表に出すのを躊躇してしまう、みたいなことは、今でもあるんじゃないかな、という気はします。

 それにしても、昔は歌詞使うのもコワゴワでしたが、今は歌詞掲載OKのブログとかがあって本当にいい時代になりました

 よろしかったら、原曲きいてみていただけると嬉しいです。
(で、気に入ったら音源買ってね!!!とお願い)


浜田麻里My tears」(作詞:浜田麻里 作曲:増田隆宣
https://www.youtube.com/watch?v=ksj9LyFx0Aw

 


薬師丸ひろ子Woman "Wの悲劇"より」(作詞松本隆 作曲呉田軽穂
この話のみ、発表当時のイメージではなく、もっと薬師丸ひろ子が大人になってから歌ったコレのイメージで。
https://www.youtube.com/watch?v=56qIgzffiB4



SHOW YA
「祈り」(作詞:寺田恵子, 安藤芳彦 作曲:寺田恵子)
https://www.youtube.com/watch?v=nSJd5M3teuM

 

 

 

真夜中の鳥 8 (矢代)

 

 

 八

 

 久しぶりにクラスの全員が揃った3月15日、俺達は無事高校を卒業した。

 少し肌寒い気候の中、卒業式が終わった構内は、参加した父兄やら集まったOBやらでごったがえしていた。

 うちの学校は、卒業と同時に、OB会の強烈なお誘いがくる。卒業生全員が加入するものから、部活動のOB会まで、この日に入会申込と最初の会費を回収しようと躍起になった大人たちが乱入してくるので、別れの雰囲気も何もあったものではない。

「これ。いままで、貸してくれてありがとな! 合格祝いに、俺のプリクラ、マシマシにしといてやったから!」

 これから空手部の追い出し会(という名のOB会入会イベント)に顔を出す、と言う影山を呼び止めて、宣言どおり、プリクラをベッタリ貼った借り物のMDプレイヤーを突き出してやったら、影山はものすごく嫌そうに顔を顰めた。

……いらねえよ、そんな頭悪そうなモノ。……ってか、それ、お前もう暫く持ってろ」

「は? なんで?」

「今日、最後の一枚を渡すからだよ」

「はぁ? じゃ、結局、親父さんのコレクションコンプリートかよ!」

「いや、あれから、更に100枚見つかってな……だから、まだ1/3だ」

…………お前の親父さん、実は、目茶苦茶ミーハーだったんじゃね?」

…………俺も、そう思う……

 お互いに、なんとも言えない顔になって黙り込んだ後、影山は、はあ、とひとつため息をついて、カバンの中から小さな紙袋を取り出した。

「これ。………カードは、家に帰ってから読んでくれ」

「カード? なんか、湿っぽいな?」

「一応、最後だからな。……でも、まあ、気が向いたら、またうちに遊びに来い。昼飯くらい食わせてやる」

「お前、俺に餌付けすんの、好きだねー?」

「お前がいつも菓子パンばっか食ってるからだ! いいか、たまにはちゃんとまともなモン食え。野菜と蛋白質! 炭水化物は、お前みたいにろくすっぽ運動しねえ奴はそんなにいらん。金がなくても、そこはケチるな。わかったな?!

 目が座っている。影山チャンコワーイ! と言ってやったら、ぽかりと頭を殴られた。

「イテッ!」

………困ったら、いつでも、何時でもいい。うちに来い。大したことは出来んかもしれんが、寝る場所と食うものくらいなんとかしてやる。そのくらいの金は、親父が遺してくれた。……だから、遠慮するな」

 影山は、目が悪いせいでどうしても目つきが悪くなってしまう癖があって、普段はあまり人の目を見て話さない。

 でも、真剣な話をするときだけは、まっすぐに相手の目を見る。ちょうど、今のように。

 その、迷いのない、深く澄んだまなざしが好きだった。

……気が向いたら、な! お袋さんによろしく!」

 この視線に、嘘はつきたくなくて、そんな言葉で誤魔化した。

 笑いながら、きっと、こいつの家の敷居を跨ぐことは、二度とないだろう、と予感しながら。

 

 

 

 高校生活が、終わったな。

 家に帰って、誰もいない部屋で、ぼんやりと、窓の外の月を眺める。

 こんなとき、普通の家なら、卒業祝いでもして、皆で食卓を囲んでいるんだろう。

 いや、そんなこともねぇか。帰っても、親が仕事でいない家なんて、腐る程あるし。

 そんなことより、明日から、もう、行くところがない。


 学校に提出した就職先には、1月から始めた飲食店のバイト先の連絡先を入れた。

 ところが、そのバイト先の副料理長に気に入られて、ちょうど先週の日曜の営業時間後によろしくやっていたところを店長に見られ、その場で首を切られた。

 あの副料理長、自分から誘ってきたくせに、いざ見つかったらこっちが誘惑したとフカしやがった。まったく、大人という生き物は身勝手だ。

 でも、まあ、高校を卒業したってことは、自分もその身勝手な大人に仲間入りした、ってことなんだろう。

 それなら、先輩の大人たちに倣って、コッチも好きなように、望むままに生きればいい、ってことなんだろうか。

 

 ……好きなように、って、なんだ?

 ふと、そんなシンプルな疑問が頭に浮かんで、気を外らせなくなった。

 

 俺の望みって、何だ?

 ところかまわず、ヤりまくるとか?

 まあ、それも悪くねえけど……

 本当に、俺って、それくらいしかないのか。

 それも、望み、ってほどのことでもねぇし。

 ただ、暇を潰せて、いっときだけ快楽を得られる、というだけで。

 

 これからは、朝起きても、もうあいつには会えない。

 ──だったら。

 もう、朝起きなくても、いいんじゃないか。

 

 なんとなく、それが正解の気がして。

 そのあとに、ぞっとするような、甘い痺れが、背筋を走った。

 

 そうだ。もう、起きなければいい。

 このまま眠って、そのあと、二度と起きなければ。

 ──そうできたら、どんなにか。

 

『─────────────────』

 

 不意に、耳元で声が聞こえて、我に返った。

 ──幻聴?

 今の、声は。

 

 なにか、聞いてはいけないものを、聞いてしまったような気がした。

 背筋に走った痺れは、いまは、はっきりと悪寒のような寒気に変わった。

 ──そうだ。何度か、こんなことがあった。

 二度と、目を覚ましたくない、と。

 まだ、アイツが家にいた頃だ。そんなふうに「望んで」、母親が常用していた睡眠薬に手をのばして、この声に引き戻された。

 

 どうして忘れていたんだろう。

 ──俺は、過去に、自殺を試みたことがあった。

 いや、結局口にはしなかったんだから、試みたわけじゃないが。

 でも、少なくとも、もう二度と目覚めたくない、と願って、その手段に手を伸ばしたことがあった。何度も。

 

 身体中にへんな汗が滲んで、寒気がした。

 そんなことを望んだ自分が怖かった。それ以上に、そのことを完全に記憶から抹消していたことが恐ろしかった。

 あの声は、なんだったんだろう?

 何度も、自死の熱に浮かされた俺を、現実に引き戻した、あの声は。

 

 一人でいるのが怖くて、耐え難いほど寂しくて。

 影山からもらった紙袋を開けた。

 なんとなくヘンな感じがして、今まで一度も中を見ていなかったのだ。

 覗いてみると、中には、影山の言葉どおり、大きめのメッセージカードが一枚入っていた。

 

 

 

 矢代へ。


 このMDを渡すかどうか、ずっと迷ってきた。

 聴けばお前は、確実に、気分を悪くすることだろう。

 でも、伝えなかったことで後悔するよりは、お前の気分を損ねても、伝えておいた方がいいと思ったから、渡すことにする。

 

 この曲が、俺から見たお前の姿だ、と言ったら、お前は怒るだろう。

 でも、高校に入って、初めてお前を見た日から、ずっとそういう予感はしていた。

 お前と色々話すようになって、お前の言葉を聞いて、予感は確信になった。

 俺は、今でも、お前のことを、痛々しくて可哀想な奴だと思っている。それは、お前が、人が生きていくのに必要な愛情を得られずに、ずっと心の奥で叫び続けているように思えてならないからだ。

 

 親の愛情に恵まれなかったお前が、一番欲しいもののために、いつか身命を投げ出してしまうんじゃないかと、ずっとそれが怖かった。

 無責任なことしか言えないが、そんなことをせずとも、それを与えてくれる人間は、いつかきっとお前の前に現れる、と俺は思っている。

 

 だから、それまで、絶対に諦めるな。

 苦しくなったら、俺のところまで来い。

 根本的な解決にはならんだろうが、一緒に酒を飲むことくらいは出来るだろう。

 

 元気で。

 

 

  

 月明かりの中で読んだそれは、影山の、不器用ながら可能な限り丁寧に書いたと思われる文字で綴られていた。

 

 ──まったく、お前って奴は……

 

 鈍くて敏い。ここまで感づいておきながら、自分がその対象だということには、まったく考えが及ばないのだから。

 

 全身の汗と震えは、止まっていた。

 のろのろと、緩慢な動作しかしない腕を動かして、同封されていたMDを袋の中から取り出して見ると、ラベルには、『SHOW-YA 祈り』とだけ書かれていた。

 デッキにセットして、イヤホンを耳に当てる。

 シンプルなギターのイントロが流れてきた。



 眠る事も出来ず 歌う事も出来ず
 壊れそうに 朝を待つだけ


 暖かな腕に 肩を抱かれながら
 愛の海へ 崩れ落ちたい


 何を探してる 何を求めている
 夢よ 空へ舞い上がれ


 高く 高く もっと 高く
 広い空を 飛べたら
 どうか どうか 翼を下さい
 この命 引き換えに


 遠く長い道 歩き続けている
 夢の続き 追い掛けて


 強く 強く もっと 強く
 心のまま 生きたい
 どうか どうか 愛を下さい
 この身体 引き換えに


 高く 高く もっと 高く
 広い空を 飛べたら
 どうか どうか 翼を下さい
 この命 引き換えに


 眠る事も出来ず 歌う事も出来ず
 壊れそうに 朝を待つだけ

 

 
 ……なんだ、この歌は。

 イヤホンから溢れてきた音に、苦笑した。

 あいつには、俺が、こんなふうに、見えてるのか……

 てか、これ、どう考えても、女の歌だろ?

 それを、まあ声変わり前の俺ならともかく、今の俺にあてはめるとか。

 ホント、あいつは、ああ見えてロマンチストなんだなあ……

 

 胸が、痛い。

 それなのに、どこか、暖かい暗闇の中に包まれているみたいで。

 ほっとした。

 

 なんだか可笑しくて、肩の力が抜けた。

 さっきまで感じていた、耐え難い孤独は、どこかに消えていた。

 

 俺は、愛されるために、命や身体を投げうったりはしないよ、影山。

 たとえそんなことをしても、手に入らないものが愛情だと、分かっているから。

 だから、そんな心配は、しなくていい。

 

『どんなに辛くても、諦めずに、生きなさい。いつか必ず、助けは現れる』

 

 不意に、はっきりと、声が聞こえた。

 ──ああ。これは、あのじいさんの声だ。

 別れ際に、そっと耳打ちした、じいさんの言葉。

 今まで思い出せなかったその言葉を、今、はっきりと、その声色まで思い出した。

 優しい、俺の未来を気遣うような、その声を。

 

 あの言葉が、これまで、俺を守ってくれた。

 これからは、あの言葉と、影山がくれたこの言葉が、俺を守ってくれるだろう。

 『だから、それまで、絶対に諦めるな』

 ……この命が、燃え尽きて終わる、最後の瞬間まで。

 

 

 



 こうして、俺の高校生活は幕を閉じた。

 影山から借りたMDウォークマンは、それから約一年、俺の手元で昭和の懐メロを再生し続けた。

 さっさと借りたものは返しておくべきだったのに、ついずるずると引き伸ばし続けた結果、三角さんにアパートを強制解約された際、50枚のMDごと行方がわからなくなってしまった。コンタクトケースの方は無事回収できたのに、ウォークマンMDだけがなくなっていたから、おそらく大家が呼んだ掃除屋がくすねてしまったのだろう。

 影山が返せと言わないので、失くしたことも黙っているが、もし返せと言われると少々困る。──もはや、MDウォークマンなんてそう簡単には手に入らないからだ。MDディスクの方は、貰ったものだから返す必要はないだろうが、いまとなっては音源の入手が難しいものも少なくないので、あのとき回収できなかったのは返す返すも惜しい。

 

 それでも。

 影山が贈ってくれたMDディスクの1枚目から50枚目まで、何にどんな曲が、どんな順番で入っていたか、全部覚えている。

 その記憶が、俺にとっては、一番の宝物だ。

 



 今日も、また一歩、足を踏み出して歩く。

 今朝も、ここに、生きている。

 行くところがない、と思っていた俺にも、居場所ができて、僅かながら、守るものもできた。

 高校時代には未来が見えないことが怖かったが、今は、見えないからといって怯えることもない。

 その日その時で、出来ることをやって、生きていく。

 悪くはない人生だ。

 

 体から零れ落ちる流砂が、止まったわけではないけれど。

 明日も、また一歩、この足を踏み出して歩くのだろう。

 

 

 ──いつか、砂の流れが尽きて、この命が終わる、その日まで。 

 

 

 

 

 

Fin.

 

真夜中の鳥 7 (矢代)


 

 七

 

 いつのまにか、季節は、もう秋から冬に差し掛かっていた。

 学校から駅に向かう途中の、アカシアの並木道を、二人で、つかず離れずの距離で歩く。

 足元で、風に巻かれた落ち葉が、くるくると回っていた。 

「お前、薬師丸ひろ子、好きなんだな」

 セーラー服と機関銃探偵物語、と、最近影山が渡してくるMDの選曲が偏っているので、今日のラベルを見て、そう言ってやったら、めずらしく影山の赤面顔を拝むことになった。

……悪かったな!」

「いや、別に、悪かねえよ?」

 

 影山からもらったコピーMDは、もう30枚ほどになっていた。

 おかげで、やたら懐メロに詳しくなってしまった。

 周囲は安室奈美恵やら浜崎あゆみやらで沸き立っているのに、二人して80年代の昭和歌謡曲にハマっている。クラスでも、完全に浮いてる。

『お前ら、おっさんくさいな~!』

 茶化す連中に『昭和歌謡曲の良さがわからない可哀想なオマエらに、天啓を与えてやろう!』とペンケースをマイクに見立てて松田聖子ヒットメドレーを歌ってやったら、メチャクチャウケて、他のクラスまで拉致されて宴会芸を披露する羽目になってしまった。

 おかげで、去年のイザコザから向こう、俺と同学年の連中との間にわだかまっていた小さなしこりは、完全に氷解した。

 別に喧嘩したかったわけじゃないから、卒業までに関係が改善したのは、素直に良かったと思う。

 にしても、このディスク交換(ってか、影山が一方的に俺に押し付けてくるだけだが)、いつまで続けるつもりなんだろうか。

 お前、まさか、親父さんのコレクション全部渡してくる気じゃないだろうな?

「そうだ、こないだもらったのに入ってたやつ。荒井由実の「翳りゆく部屋」とか。あれ、綺麗だな! とくに出だしのパイプオルガンが、ゾクゾクする。歌詞は暗いけど」

 お前、結構センチメンタルなの好きだよな、と言ってやったら、また顔を赤くしてそっぽを向いてしまった。

 

 こいつと過ごせる時間は、あと半年。
 ──少しずつ、終わりが近づいている。

 

 親友、という関係におちついてから、こいつは、俺の前では結構色々な表情を見せるようになった。

 たぶん、それで、よかったんだと思う。

 それが、よかったんだ。

 ……まだ、その言葉に、何も痛みを感じないわけじゃないけれど。

「で、薬師丸ひろ子は?」

……声が……好きだ」

「へぇ……顔じゃなくて、声! ハスキーヴォイスが好みなのか?」

……まあ。……お前は、どうなんだよ? なんか、好きな歌手とかいるのか?」

「うーん、俺? あんま、歌手というより、歌詞かな? メロディとか」

 基本、雑食ですからー、と、笑って返す。これは本当だ。

 影山のMDプレイヤーを借りてから、俺の一人の時間は、音楽漬けになった。

 相変わらず土曜の夜は裏バイトだが、それ以外では、あんまり欲しいとは思わなくなった。

 テープでなくてよかった、と思う。テープだったら、もうとうにヘロヘロになっていただろう。

「で、今日のは……Woman? Wの悲劇? あ、映画の主題歌の?」

「まあ、映画、知らねえんだけどな。でも、曲は綺麗だから。」

「俺も知らね」

「──曲、書いたのは、荒井由実だ。名前変えてるけど」

「へぇ……

 実は知っていたが、とりあえず黙っておいた。

 荒井由実松任谷由実呉田軽穂、と、なんか色々名前があって混乱するが、曲は好きだ。別の歌手が歌ってる曲でも、いいな、と思った曲は大体彼女の曲だったりする。あとは菅野よう子とか。

 

「──矢代」

 ふと、気がつくと、影山が足を止めていた。

 まるでその瞬間を待ち構えていたみたいに、風が強く吹いて、真っ黄色に染まったアカシアの葉が、辺り一面に降り注いだ。

 黄色い吹雪の中に、黒い学ランの影山の姿が、くっきりと浮かび上がっている。

 その光景が、まるで、一枚の絵画みたいで。

 ──なんだ、この、少女漫画みたいな。

 街の喧騒が、遠くに聞こえた。

 

 

……お前、やっぱ、進学しないか? うちに下宿して、うちから、大学に通えばいい。下宿代も食費も、出世払いでいい。──お前にまだ、なりたいものが見つからないなら……一緒に、探さないか?」

 

 

 その、影山の表情が、まっすぐで、まるで遠くの未来を見るようなまなざしで。

 いつものように、ふざけて誤魔化す言葉が、喉の奥で消えた。 

 

 ──一瞬、想像した。

 影山と同じ家に住んで、優しいお袋さんが用意してくれる食卓を囲んで、学校は違うだろうが、また同じ家に帰ってきて。

 その想像が、幸せで、幸せで。

 その光景が眩しくて。

 ──その光の強さの分だけ、心臓に食い込む刃が痛かった。

 

 親友として? 一番近い場所にいて?

 そこから、お前が、誰か別の人生の伴侶を選ぶのを、見守るのか?

 お前のいる家の屋根の下で。

 真夜中に、叫ぶこともできずに。

 息を殺して、朝日が昇るまで、体の熱をやり過ごして。

 

 まったく、無自覚に、残酷な男だよなあ……お前は。

 

 

「──悪ィ。俺、マジで、勉強嫌いなんだわ。卒業までは、親に金出してもらってる手前、やることはやるけど。ようやくあと半年! ってところで、また何年も勉強する気にはなれねぇよ。……でも、誘ってくれて、ありがとな」

 

 

 完全に嘘でもない。勉強は、嫌いとは思わないが、別に好きでもない。大学なんて、勉強が好きな奴が行くところだろう。俺が、影山のお袋さんに負担をかけて、多分借金してまで、行くような場所じゃない。

 だから、大丈夫だ。

 ちゃんと、本気で、そう思っている。

 きっと、影山にも、そう、伝わっている。

 

 影山は、ひとつだけ、大きなため息をついた。そして、また歩き始めた。

 悪いな、影山。

 できれば、お前の望む未来の一部になってやりたいけど。

 ──それだけは、無理だ。

 

 

 

 

 もう行かないで そばにいて
 窓のそばで 腕を組んで
 雪のような星が降るわ
 素敵ね

 もう 愛せないと言うのなら
 友だちでもかまわないわ
 強がってもふるえるのよ
 声が...…

 ああ 時の河を渡る船に
 オールはない 流されてく
 横たわった髪に 胸に
 降りつもるわ 星の破片

 もう 一瞬で燃えつきて
 あとは灰になってもいい
 わがままだと叱らないで
 今は......

 ああ 時の河を渡る船に
 オールはない 流されてく
 やさしい眼で見つめ返す
 二人きりの星降る町

 行かないで そばにいて
 おとなしくしてるから
 せめて朝の陽が射すまで
 ここにいて 眠り顔を
 見ていたいの

 

 

 はは……すごい歌詞だな。

 真夜中に、影山から渡されたMDを聴きながら、思わず笑ってしまった。

 Woman。まさに、それしかない、ってタイトルだ。

 

 時折、考える。

 あいつが言った──お前は女のコだ、と。

 でなきゃ、こんなモノ入らない、こんなに気持ちよくもならない、と。

 自分でも、半分それを信じていた時期があった。

 後ろのあんな場所に突っ込まれて、こんなに気持ちよくなってしまうのだから、自分はきっと何か違う性別なんだろう、と。

 だから、母親は、俺を疎んだのだろう、と。

 今にして思えば、まったく馬鹿馬鹿しいことに。

 

 ──もしも、本当にそうだったなら。

 なにもかもが、正しい場所に収まったんだろうか?

 母親は、いまも家にいて、──ああ、クソ親父には、相変わらず犯されていたかもしれないが。

 それでも、高校で影山に出会って、普通の恋をして。

 いちかばちかでも、自分の気持ちを伝えたいなんて、希うことができたんだろうか。

 

 ただ、女であるという、それだけで。

 こんなにも赤裸々に、胸の内にあるものを、叫んでいいものなのか?

 48本ある染色体のうちの、たった一つが、完全な形をしている、というだけなのに。

 

 それなら、欠けてしまった体で、女のように扱われて、女だと言われ続けて育った人間は、一体どうすればいい………?


 女に、生まれたかったわけじゃない。

 女に、なりたいわけでもない。

 ──ただ、この体では、許されないことが多すぎて。

 声が──どこにも、届かない。


 

 

 

 その日以降、影山は、2度と俺の進学の話をしなかった。

 あれは、たった一度だけ、影山が勇気を振り絞って見せてくれた覚悟だったんだろう。

 バイだ、と打ち明けたあの日の影山の行動の意味を、今の俺はもう知っている。

 親友という、あいつにとって明確な定義を持つ立場に立ってみて初めて、あいつの考えが見えるようになったから。

 あいつは、あのとき、男でも女でもない俺に、恐怖した。

 そして、それは正しい──これは、ちょっと珍しい趣味を持っているだけの、普通の人間の影山に、どうこうできる問題じゃないからだ。

 これ以上踏み込めば、俺を傷つける。あいつは、あのとき、そう判断して、身を引いたのだろう。

 冷静で、的確な判断だった。

 それなのに、あいつは、そのことに、今も罪悪感を感じている。なんとかして、その埋め合わせをしようと、必死になっている。

 

 

 ……もうそろそろ、いいんじゃないか?

 もう、あいつを、解放してやらなければ。

 

 それでも、どうしても、自分からは離れ難くて。

 渡されたMD49枚を数えた頃、卒業の季節がやってきた。

 

 

 

真夜中の鳥 8(矢代)に続く

真夜中の鳥 6(矢代)に戻る

 

 

真夜中の鳥 6 (矢代)

 

  六

 

「こないだの全国統一模試の結果を渡すぞ!」

「エエエ~~ッ!! いらねえっすよ! せっかくの連休が!!

「連休だから渡すんだバカども。休みの間に、間違ったところはちゃんと復習しとけよ!」

 

 また、暑くても我慢の夏がやってきた。

 

 影山は、もう絆創膏を渡してはこない。コッチも、例の事件以来、目をつけられるのは困るので、縛る場所をもっと見えづらい位置に変えるようにした。

 手を後ろに回して、手首より上の腕の部分をぐるぐる巻きに縛る。やってみたら、コッチの方が、より拘束感が強くて、悪くない。ただし、肩は更に頻繁に外れるようになったが。

「矢代、よく頑張ったな。お前、今回3科目で全国100番以内に入ってるぞ」

 答案用紙の封筒を受け取る時、担任の島田にそう言われた。

「へー! まあ、今回、マークシートだし、得意な問題多かったからじゃないですかね? マグレですよ」

 我ながら、模範解答だ、と思う。何しろ、下手なこと言うと、本気で呼び出しを食らって大学案内パンフレットに埋もれる羽目になるからだ。

 島田は、眉を下げて俺を見た。

……お前……本当に、進学しないのか? お前なら頑張れば推薦は余裕だし、授業料免除や企業奨学金とかも……

「しません。俺、早く働いて金稼ぎたいんで」

 全部言い終わる前に、どうも、と頭を下げて、封筒を受け取った。まあ、島田を黙らせるのはそんなに難しくない。

 問題は、コイツだ。

……矢代……お前、ホント、むかつく奴だな! 進学する気がないなら順番譲れ!」

「へっへー! 影山クンは、何番だったんだよ?」

「あっコラ、勝手に人の成績見るな!」

「あれ? 第一志望C判定じゃん。ヤバくね?」

「うるせえ!」

 影山は成績表を取り上げてから、ぼそりと呟いた。

「なあ、お前、明日の土曜、時間あるか?」

「うーん、どうしよっかなー?」

……吉牛大盛りツユダク」

「いいね、乗った!」

 このところ、頻繁に繰り返している会話を、また今日も繰り返す。

 行き先は、吉野家だったり一蘭だったりサイゼリヤだったり、まあ色々だが。

 要するに、コイツの苦手な現代文と生物を教えてやる見返りに、影山が俺に昼飯を奢ってくれる、という話だった。

 最初はしつこく影山の家に夕食に誘われたが、土曜の夜は俺は裏バイトがあるので固辞して、この形に落ち着いた。

 まあ、こいつが考えていることは、大体わかる。要するに、勉強教えろ云々は口実で、俺にその裏バイトをやめさせようとしてるんだろう。

 影山は俺の性癖を理解していないのか、と思っていたが、クラスどころか学年全体にまでホモで土曜の夜にオッサン漁ってる、という噂が広がってしまえば、流石のコイツも認めざるを得なかったらしい。

 クラスメイトは一時期、俺を遠巻きに眺めていたが、そのうち、俺が誰彼構わず襲う人間ではないということを理解したのか、またもとの距離感に戻っていった。

 そういうところ、理系の人間というのは、よくも悪くも合理的で後腐れがない。

 ただ、流石に、この俺と二人きりになっても平気でいられるのは、影山くらいだろう。

 俺が上位成績者に名前を連ねている限り、こいつは口実でもなんでも俺を頼ってくれる。

 それが嬉しくて、卒業後使うアテもないのに、必死で上位の成績をキープしていることは、勿論誰も知らない。

 

 

 土曜の放課後、吉野家で腹ごしらえしてから、影山の家に向かう。

 コイツの家は、新宿三丁目の御苑に近い閑静な場所にあって、昔ながらの古風な木の門がある。

 純日本家屋の玄関の敷居を跨ぐと、影山のお袋さんが出迎えてくれた。

 俺が1年以上親の顔を見ていない、と言った時、微妙な顔をしていたので、もしかしてコイツも母親がいないんじゃないか、と思ったが、そういうことではなかったらしい。

 あまり影山が友人を家に呼ぶことはないみたいで、いつもとても喜んでくれて、途中でおやつを持ってきてくれたりする。いい家族だな、と思う。

「ところでお前さ、こんなに俺といていいわけ? 吉川チャン怒るんじゃねーの? ……つっても今更だけど」

 影山の部屋に通してもらって、模試の問題用紙と答案を広げながら、一応友人として心配になり、聞いてみた。

 影山は、氷の入った麦茶のグラスを無言で座卓に置いてから、ぼそりと呟いた。

……別れた」

……マジ? どっちから?」

「……お互い、もう受験だから、って……つか、どうでもいいだろ、そんな事は。早くやろうぜ」

 投げやりな影山の口調が気になった。失恋して、自棄になっているのとも違うような気がした。

「へー。じゃ、今回のC判定は、失恋が原因か」

「うるせえ」

 教える、といっても、別に俺が何か特別なことをするわけじゃない。お互い、自分の課題を広げて、たまに、影山がここどうするんだ、なんて相談してくる。ただ一緒に勉強するだけだ。

 でも、俺は、そんな静かな時間が好きだった。

 距離1m未満。それ以上離れもしないが、くっつきもしない。

 俺が、生まれて初めて手に入れた、個体距離。

 ──うそつき。

 時折、そんな声が聞こえる。

 ──お前は、他人には嘘をつかないが、自分には嘘ばかりだ。

 ああ、そうだよ。

 自分にこれだけ嘘ついて生きてたら、外向きにまで嘘なんかつきたくなくなるだろ。

 ってか、そういうお前も、嘘ッパチだから。

 俺の中に、真実なんて、何にもねぇよ。

 自分の中の、一人二役の会話は、いつもそうして終わる。

 なんだか気が逸れて、問題に集中できず、シャープペンシルを持ったままぼうっと影山の部屋を眺める。勉強机の端に、沢山のMD(ミニ・ディスク)が積まれているのが目に入った。

……あれ……何聴いてんの?」

 思わず、そうこぼしてしまって、しまった、と思った。

 音楽の話、されても分からない。

 家にプレイヤーねぇし。

……ああ、あれは、親父の趣味で……。歌謡曲ばかりなんだが。かなり沢山あったから、一応全部聴いとこうかと思って」

……親父さん?」

「ああ。わりと何でも聴く人で、俺の前では格好つけてクラシックや洋楽を聴いてることが多かったんだが、こういうのは、恥ずかしかったんだろうな。書斎を整理したら出てきた。聴いてみるか?」

 影山は、座卓から立つと、MD50枚ほど入った箱を持ってきた。

 全部綺麗にラベルが貼られてあり、几帳面な字で曲名も書き込まれている。影山の親父さんは、相当マメな人だったんだろう。息子のコイツが不器用なのは、不運としかいいようがない。

松田聖子……中森明菜……薬師丸ひろ子…………へぇ…………

 疎い俺でも知っているような歌手の名前が並んでいる。

荒井由実……SHOW-YA……浜田麻里……あ、これ、ソウルオリンピックの?」

「そう。お前よく知ってるな。まだ5歳くらいだっただろ?」

「──あの頃のことって、わりと、ピンポイントで覚えてね? そのほかのことは全く覚えてねーのに、ある風景だけ覚えてるとか」

 影山の質問にぎくりとしたのを、笑ってごまかした。

 ソウルオリンピック……たぶん、母親とテレビで見ていた。母親の膝に抱かれて。

 本物の記憶かどうか、自信がなかったが、浜田麻里の名前で思い出した。──Heart and soul。俺は、この曲が好きだった。この曲と同じ盤に入っていた、My tearsはもっと好きだった。

 不覚にも、涙が滲みそうになった。

 あれは、本当にあったことだったんだ。俺にも、あんな時間が。

 隠したつもりだったが、一粒、こぼした。影山には、見られてしまったんだろう。

 影山が、言った。

「それ、コピーしてやる。他にも、なんか、適当にみつくろって」

「──いや、いいわ」

「遠慮すんな。俺も、いままであんまこういうの聴かなかったけど、結構悪くねぇと思ってて。自分用のベストコレクション作りたいと思ってたから」

 やけに必死な感じで言い募る影山に、気使わせて悪いな、と思いながら。

 これは、もう、言わねえと収まんねえかな、と腹をくくった。

「──悪ィ。もらっても、再生できねんだわ。うち、そういう機械何もねぇから」

 日々の生活はギリギリで。ウォークマン欲しい、と、ずっと思ってきたけれど、何万円もするような電子機器は手が出なかった。第一、こういうものは、買った後にも、メディア代も電池代もかかる。

 影山は、しばらくじっと黙り込んでいたが、やおら立ち上がって、部屋を出ていってしまった。何か気に障るようなことしたか、俺? と思っていたら、すぐに戻ってきて、その時には、手に小さな箱を抱えていた。

「──これ、俺のだから、貸してやる。俺は、今は親父の使ってるから」

「────ごめん、そういうつもりじゃ」

「いいから!」

 有無を言わさない声に、はっとした。

 

 影山が、俺を見ている。

 黒い瞳の奥に、黒曜石みたいな、硬質の光が見えた。

 

「やるとは言ってない。遠慮、すんな。──頼むから」

 

 親友、だから?

 

 影山は、もう、うちがどういう家庭環境か、だいたい感づいてるんだろう。

 ウォークマンなんて買えねえ経済状態だってことも。

 もしかしたら、裏バイトが、ただの遊びじゃなくて、生活の手段になってることも、薄々気づいてるのかもしれない。

 昼飯おごりたがるのも、多分、俺がまともに食ってないと思ってるのかな。

 それでも、こいつは、あからさまに止めろ、とは言わない。

 そう、決めたんだろう。

 だから。

 

「──わかった。じゃ、有り難く借りとくわ。……返す時には、バリバリにカスタマイズして、俺のプリクラ貼りまくって返してやるから、楽しみにしてな!」

 

 うまく、軽薄に笑えただろうか。

 結局、その後は、どの曲をチョイスするか、何枚のディスクにおさめるか、喧々諤々で、まるで勉強にはならなかった。

 

 

 

 家に戻って、今日一枚だけ先にもらったディスクをかけた。

 一番最初に、浜田麻里My tearsが入っていた。

 なんで、Heart and Soulが先じゃないんだ。そのことに少しひっかかりを感じたけれど、まあ、多分、影山もこの曲が好きなんだろう。

 

  愛 口ずさんだ言葉の その意味を
 いつの日か 知り始めても
 この夢に勝てない

 時 移りゆき 思い出にはぐれても
 この世に生きるすべを
 探して 歩いていきたい

 My Tears 今 この一瞬に
 すべてをかけてゆけるのなら
 My Tears 涙もかれるほど
 命の限りに生きてきた
 永遠の夢 心に満ちていく日まで

 想いあるがままにゆくことの難しさを
 時代は教えるけれど ひとつかみ勇気をください
 


 ……こんな、歌詞だったんだ。
 なんだ、アイツ、俺にエールでも贈りたかったのかな。

 

 My Tears 今 この一瞬に
 すべてをかけてゆけるのなら
 My Tears 涙はもう捨てて
 命の限りに生きていく
 悲しみを勲章に変えられる日まで……

 

 

 その夜は、とても男を漁る気にはなれなくて。

 影山がコピーしてくれたその一枚のMDを、一晩中きいていた。

 悲しいわけではないのに、涙が溢れて止まらなかった。

 何年も涙なんか出なかったのに、このところ、泣いてばかりだ。

 どうなってんだ、俺の体。

 

 悲しみを勲章に変えられる日。

 そんな日が、本当に、来るんだろうか。

 明日には、この歌詞みたいに、涙を捨てて、また歩いていけるだろうか。

 歩いて行った先に、なにかが、あるのか。

 なにも見えない。なにも聞こえない。

 それでも。


 きっと、俺は、また一歩、歩いていくんだろう。

 呪いのように、──恵みのように。

 

 



真夜中の鳥 7(矢代)に続く

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真夜中の鳥 5 (矢代)

 

 

  五

 

 

「──まあ、そういうことだから。……本当は、親御さんとちゃんと話したかったが……だが、お前は、本当は自分が何やってるかわかってるんだろう? ……お前は頭がいい。ちゃんと、自分のため、将来のため、何を選ぶべきか分かっているはずだ。……家庭の事情は、大体わかってる。悩みがあるなら、相談にも乗る。だから、一人で溜め込むな。自暴自棄になるな。しんどかったら、助けを求めろ」

「──はい」

「2度とやるなよ」

「──はい」

 

 20分、か。

 2週間ぶりに登校した学校の屋上で、ぼんやりと空を仰ぐ。

 意外に、粘ったな。島田のやつ。

 クラスメイトに手を上げた科で2週間の停学を食らったあと、担任の島田は俺を呼びつけて、何があったのかを聞き出そうと、あの手この手で攻略してきた。

 色々ユルい学校なので、校則にあるわけじゃないが、流石に売春はアウトだ。あんなことになった以上、あの二人が土曜に見たらしい風景を担任にチクらなかったわけはなく、従って指導が入らないわけもなかったが、何分肝心の証拠がない話で、よくぞ20分粘ったと素直に感心した。

 2度とやるなよ、は、クラスメイトに手を上げたことではなく(まあそれもあっただろうが)、ウリのことを言っているのだろう。お互いに、主語を隠した会話で、なんのことを話しているのか分かっているくせに、しらを切り通している。ばかばかしいことこの上ない。

 ああ、でも、目つけられたから、しばらくは痕が残るようなことは控えないとな。

 こうなることは予想がついたから、停学処分を食らった日は、教員に捕まる前にさっさと学校から逃亡した。停学処分は、家の留守電で聞いた。2週間ならちょうどいい。緊縛痕も、ナイフで薄く切られた痕も、そこそこ消える。

 綺麗になった両手首を見た。この2週間は散々ヤりまくったが、縛らせてはいない。

 つまらんな。だいたい、SMオプションなしじゃ、代金釣り上げられねぇし。

 1ヶ月で家賃光熱費、学費交通費込みで8万チョイなんて、自炊の天才でもなければ回せるはずもなく、俺にとって最早ウリは生活の手段だった。普通の家庭の人間のふりをするためには、必要なモノもある。漫画や雑誌を買ったり、他の奴に付き合って買い食いしたり。

 まあ、付き合いの買い食いは、もう必要ないかもしれないが。

 今日登校してみたら、クラスの男子は、明らかに俺から距離を置くようになってて、心底笑えた。

 全員が見事に公衆距離だ。

 心配しなくても、お前らみたいなナヨっちい奴らとヤりてえとか思わないんだがな、と心の中で呟く。喧嘩したら俺より弱そうな奴ばっかりだし。まあ、空手部と柔道部の連中にはかなわないだろうが。

 それより、今欲しいものがある。ウォークマンが欲しい。影山が、なんか聞いてた。
 こういうとき、パパ活できる女子はいいな、と思う。欲しい、と強請れば買ってもらえる。

 残念ながら、俺の客はソッチ系の対極にあるような奴ばかりだから、そこは期待できない。

 あいつ、音楽は何が好きなのかな。

 空には、綿菓子のような雲がかかっていて、それをぼんやり眺めていたとき、屋上に人影が現れた。

 

 

「二週間何やってたんだ?」

 必修単語のリレー練習6000、とか書かれた本を持って隣に座った影山が、そんなことを聞いてきた。

「セックス」

 単刀直入に返した。それしかしてないから、それ以外答えようがない。

 クラスの連中は皆誤解しているようだが、俺は基本、嘘はつかない。隠していることは沢山あるが。

……親に、怒られたんじゃないか?」

 いきなり、影山が、思い切り斜め上の質問をしてきて、思わず吹き出しそうになった。

 そこ?! 今、気にするとこ、そこなのか?

「ないないっ! 会ってねーし、ここ一年くらい」

「そう……なのか?」

 少し動揺したような声に、あ、そうか、と思った。

 お前、親父さん亡くしたもんな。きっと、親父さんのこと、大好きだったんだな。
 親父さんが誇りに思えるような息子でいよう、と、いつも思ってるんだろう。

 もしかすると、コイツは、俺の性癖のこと、まだよくわかってないのかも知れない。
 クソ真面目だし。あんなエロい遊び仕掛けてくるくせに、奥手だし。

 ──そうでなければ。

 あんなことがあって、まだ俺にこんなふうに近づこうとか、普通、思わないだろう。

「それよりお前、どうするんだ? 進路」

 また、斜め上どころか、360度回って元に戻ってきたみたいな質問が降ってきて、正直、ちょっと呆れた。

「進路? まだ先じゃん」

「バカ、もうすぐ2年終わるんだぞ。お前本当に何も考えてないんだな……

 そういえば、3学期に入ってから、何度か、進路希望調査みたいなのを書かされた。俺はその度に就職、とだけ書いて提出していたから、特に気にもしていなかった。

「影山は……大学?」

「ああ、医学部に進む」

 ああ、それで、必修単語ね。

「へえ……いいんじゃないか?」

 親の跡を継ぐ。お前らしいと思うよ。真っ当で。

「矢代はなりたいものとかないのか?」

 今日の影山はやけに饒舌だな、と思った。普段は、俺が何かしら下らないことを喋りかけて、こいつがそっけなく答える、の繰り返しだ。

 ……考えてみたら、そんなこと聞かれたの、人生で初めてかもしれない。考えたこともなかった。

「そうだねー、芸能人とかどーお?」

……お前ならなれるんじゃないか?」

「マジ?」

「お前は他の奴と違うからな」

「あはっ、やっぱりー? オーラかねえ」

 いや、そこ、馬鹿か、って笑うとこなんじゃないの?

 もっと現実見ろ、とか。

 心の中で思いっきりツッコんで、不意に、虚しくなった。

 ああ、本当は、この会話もどうでもいいのかもな。たんに、一応友達っぽい立場にいたから、あんなことやらかした俺を、一応心配してるポーズなのかも。

 本当は、もう近づきたくもねえけど。

 気を遣わせて悪いな、影山。

 

……悪い」

 一瞬、心の声を、読まれたかと思った。

……俺はお前を、可哀想な奴だと思ってる。お前が痛々しくて可哀想だと、友達なのに、思っている」

 ──何を言われたのか、わからなかった。

 可哀想……痛々しい? 

 お前が、俺を?

……なんで?」

「お前は……ひとりだからだ。……俺もだが」

 何の話だ?

 

 親とは1年会ってない、とか俺が言ったから、そういう話になったのか?

 お前も、親を失って、一人になったから?

 まさか、お前、母親も、もういないのか?

 

 頭の中をめまぐるしく情報が錯綜して、それでも、影山の真意がわからなくて。

 まったく芸のない一言しか返せなかった。

 

……ひとり」

「そうだ」

「へえ」

「お前は変わってるが嫌な奴じゃない。俺のおかしな趣向にも、お前は笑わずに付き合ってくれた」

 

 そっち、なのか?

 今、このタイミングで?

 お前の趣向なんて、俺からみれば、ストレートの一部をこっそり見えないように金髪にしました、ってくらいの微妙な「おかしさ」でしかない。

 でも、言われて気づいた。たしかに、お前もどこかおかしいんだろう。世間の「普通」に比べれば。

 なんと知らない内に、俺は影山にいわれのない共感を覚えられていたのだ。

 

 俺は、呆然として、何も言い返すことが出来なかった。

 影山は、しばらく黙り込んで、それから正面を向いたまま、ひどく真剣な表情で呟いた。 

 

「俺はお前が大事だ。 親友として」

 

 ああ、なんだ、これは。

 怒り? 嫉妬?

 喜び? 痛み?

 ──恐怖?

 

「親友? 何ソレッ、キモッ!!

 

 人間、あまりに色々な感情がぐちゃぐちゃになると、笑うことしかできなくなるらしい。

 そういえば、笑いの表情は、ヒトが猿だった時代には卑屈さの発露だったんだった。

 楽しいから、嬉しいから笑うなんてのは、マトモな人間として、成熟した人類にだけ許される特権なんだろう。

 だから、こんなにぶっ壊れている俺が、ここで笑うのは、正しいのだ。

 

 バカみたいに、腹を抱えて。

 俺はいつまでも、ゲラゲラと笑い転げた。

 

 親友。いい言葉だな。

 お前みたいな奴は、そんなに簡単には、その言葉を使わないんだろう。

 その大切な言葉を使う相手に、俺を選んでくれて。

 こんなに、なんにもない、空っぽの俺に向けてくれて。

 心底、嬉しいと思うよ。

 

 親友。ひどい言葉だ。

 お前が本気で、嘘偽りない言葉を吐いている、とわかるからこそ、絶望する。

 何もない俺が、たった一つだけ見た、未来。

 明日も、学校に行けば、お前がいる。

 でも、高校を卒業してしまったら。

 未来のお前の隣を歩くのは、他の、もっと優しい誰か、なんだろう。

 

 お前の未来に、俺は、いない。

 

 

 

 

「ただいま──」

 誰もいないとわかっているのに、なぜそんな言葉で家の扉を開けるのか、正直、自分でもよくわからない。

 遠い昔に、その声に毎回きちんと答えてくれる人がいたのか、その記憶も朧げで、本当かどうかわからないのに。

 けれど、今日は、扉を開けるなり、頭痛がするような甘ったるい香水の匂いがした。

 ──帰ってきたんだな。

 いつものように、万札が数枚、醤油差しの下に敷かれていた。

 こんなに家に戻らないなら、このアパートも解約すればいいのに、と思う。俺一人なら、こんなに大きな部屋はいらない。ワンルームで十分だ。

 それでも、こうして毎月金を置いていくのだから、俺に対して、まったく何も思わないわけではないんだろう。

 そのおかげで、俺はまた、来月も、高校に行ける。

 それは、きっと、有難いこと、なんだろう。

 一日、一日。一歩ずつ、足を進めて、歩んでいけば。

 いつの日か、それを本当に、心から有難いと思える日が来るんだろう。

 

 匂いがきついので、奥の部屋の窓を開けた。

 夕日が落ちかかる部屋。西向きの、最悪の間取りだ。

 それでも、こうしてベランダに腰掛けると、窓から入る風が、胸の隙間をすり抜けていくようで、心地いい。

 

 ──お前は ひとりだからだ

 

 聞くまいとしても、その声は、蘇る。

 何度も、何度も。

 

 ──俺はお前が大事だ 親友として 

 

 自分の涙が、手のひらを濡らすのを見た。

 ああ、泣けるんだな、俺。

 それなら、まだ生きて、ここにいるんだろう。

 体を痛めつけられることでしか止まらなかった流砂が、止まっている。

 胸の奥の、耐え難い痛みのために。

 

 

 

 その日、俺は、最初で最期の恋に、失恋した。
 
 

 

 

 

真夜中の鳥 6(矢代)に続く
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真夜中の鳥 4 (矢代)



  四

 

 

「──俺、バイなんだ」

 その日、いつものように影山に傷痕を触らせながら、なんでそれを口にしたのか、実はよく覚えていない。

 本当に、完全に思いつきだったんだと思う。

 なぜなら、頭では、それを切り出したらこの関係が終わる、とわかっていたからだ。

 俺の頭は、たまにバグを起こす。自分でも考えてもいなかったことが口から飛び出してきたり、行動に反映されたりしてしまう。

 そういうとき、俺は大抵、そこに至った思考の過程を覚えていない。

 あとから思いかえそうとしても、霞がかかったように、そのときの思考回路を追えない。

 たぶん、これが世の中で言われる「いきなりキレる」というやつなんだろう。

 自分の思考の軌跡が追えないのは怖い──だから、俺は、そういうとき、反射的にその理由を後づけでこしらえる癖がついていた。

 たんに、影山をからかってやりたかった。こいつの焦る顔が見たかった。
 きっとそういうことなんだろう、と。



 本当のことを言えば、俺は、男も女も好きになったことはない。

 性別以前に、人をそういう意味で好きになる、という感情がわからなかった。

 なにしろ、人がそばにくれば、自分の体が臭くてたまらないのだから。

 ちゃんと風呂にも入っているし、精神的なもので、現実の匂いではないことは分かっている。とはいえ、自分の脳は確実に匂いを感じていて、吐き気がするから、誰かのそばに寄りたいとは思わないし、寄られたいとも思わなかった。

 どういうわけか、クズみたいな乱暴な男と寝るときだけは別で、匂いがしない。多分、相手もどうせ腐ってる、と思うから、自分の匂いが気にならないんだろう。

 だから、真っ当な人間なのに側に寄られても匂いがしない影山は、俺にとって本当に例外中の例外だった。

 


 俺の唐突な告白にも、影山は、本当に聞いてんのか、ってくらい、無表情で、眉ひとつ動かさなかった。

 バイってわかんねえ? と水を向けてみたけど、影山の表情筋は沈黙したままで、ただ、唇が小さく、「いやそうか」と呟いた。

 ……つまらん。

 そうか、じゃねえよ。

 同性のクラスメイトが、お前を毎日エロい目で見てるかもしんねえ、って話なんだけど?

 唐突に、その鉄面皮をひっぺがしてやりたくなった。

「それだけじゃない」

 耳をつまんで思い切り引っ張ってやったら、初めて一瞬、影山が痛みに顔を歪めた。

 その瞬間、影山の眉間に刻まれた深い陰影に、背筋を電気が走ったのを感じた。

 なんだ、こいつ、こんな表情もできんじゃん。

「小学校3年から中学まで母親の再婚相手にセックスを強要されてからというもの、セックスのことが頭から離れない」

 一息に、引っ張った耳の穴の中に叩き込むみたいにしてそう言ってやったら、ようやく影山が驚いた瞳でこちらを見た。

 

 はっとしたような。

 いつもは黒く塗りつぶされている瞳孔の深い奥底に、閃く感情が透けて見えるような、その、瞳の色。

 

 思いがけず、胸を掴まれた。

 そうだ。これが見たかった。

 ──もっと、見せて。

 切望、というものがあるとしたら、たぶん、このときの俺のその感情がそうだったかもしれない。

 けれど、影山は一瞬だけ見せたその稀有な瞳の色を、またすぐに伏せがちの眼の奥に仕舞い込んで、俯いてしまった。

「──そうか」

 

 俺は、思いがけずおとずれた、たぶん一生に一度か二度のその機会が、敢え無くも潰え去ってしまったのを感じた。

 何を?

 機会、ってなんだ。

 自分は、何を望んでいたのだろう?


 わからないまま、なにかが、永遠に失われた、その喪失感だけが、ぎりぎりと胸を締め付けた。

 どうして、こんなに心臓が痛いんだろう。

 すぐに外されてしまった視線が、どうして、こんなにも───
 

 ──その上、ドMなんだぜ──

 その言葉は、声にはならなかった。

 たとえ口にしても、もう影山には届かない。

 そう、分かっていた。

 

 

 その週末、俺はかなりキレたヤクザ相手にウリをやらかして、結構深刻な怪我を全身に負った。

 担任は何度も、他校の生徒との喧嘩じゃないのか、と探りを入れてきたが、いくら相手の学校名を聞かれてもそんなヤツは存在しないので答えられない。とにかく、いきなりボコられたのでよく覚えてない、の一点張りで押し通した。

 それはともかく、月曜にはかならずこちらの手首チェックにくるはずの影山の姿がなく、火曜になってもまだ学校を休んでいたので、担任の追求を切り上げるためもあって俺は話題を変えた。

「それより先生、昨日から影山休みみたいですけど」

「ん? ああ……親父さんが亡くなったんだ」

 まったく想像していなかった一言に、しばらく、思考がフリーズした。

 

 俺には、父親の記憶がない。

 自分が父親だと思えるような父親は、という話だが。

 戸籍上の義父は、親父だなんて思ったことはないから、父親を失う、という感覚は正直わからない。アイツがどこかでのたれ死んでも、ふーん、そうか、と思うだけだ。

 

 それなのに、何故、見たこともない影山の父親が死んだからといって、こうも心を乱されなければならないのか。

 また、思考の過程が飛んで、気づいたら、俺は、雨の中、影山の家の前に立っていた。

 そうだ、あいつが泣いているかもしれない、と思った。それが見たくて、こんなところまで来たんだ。

 また、いつものように、後付けで自分の行動の理由を考える。

 そのくせ、門をくぐる勇気はなかった。

 

 影山の、兄弟の話とか、親の話とか、聞いたことがない。

 弁当は持ってきているから、たぶん母親はいるんだろう。

 でも、もし母一人、子一人だったら。気落ちしている母親を支えて、こんなところまで、出てくる暇はないだろう。

 

 わかっているのに、足が動かなかった。

 30分ほども立ち尽くして、それでもまだ動けなくて。

 いい加減あたりも薄暗くなってきた頃、ふいに、横から現れた人影に腕をとられた。

「矢代?」

 振り向くと、傘もささずに、濡れている影山の姿があった。

「やっぱりそうだった。制服見えたから……

 ああ、思ったより、喋れんじゃん、お前。

 いつもより少し早口な影山に、ぼんやりとそんなことを思った

「どうした? 先生に聞いたのか?」

「あ……うん」

 むしろ、俺の方が、言葉が出てこない。

 影山の涙を、見たかったんじゃなかったのか?

 でも、あれ?

 ──顔が、見れない。

 

 影山から、親父さんの容体が悪いなんて、一言もきいたことがなかった。

 つまり、俺に伝える必要はなかった、ってことだ。

 俺のあんな遊びに付き合ったのは、不安を紛らわせたかったからなのか。

 ──それなのに、勝手に葬式に来るとか。

 また、やらかした、と思った。距離が近すぎる。

 そういや、考えナシに来たから、香典もない。

 

「でも俺香典とかなくて」

「バカ……いらねえよ」

 唐突に、この場から逃げ出したい、なんて思った俺に、影山はやさしい声で言った。

 こんなに優しいあいつの声を、俺は、聞いたことがなかった。

「ありがとな……

 

 

 

 毎晩、夢に見る。

 優しい声に誘われて、顔を上げた先に見た、影山の微笑。

 目尻にも頰にも、涙の跡があって、目は赤く泣き腫らしていた。

 あの面影が、肺腑の奥に焼き付いて、息ができない。

 

 あれ以来、俺はウリをやめた。正確には、他の男に構う余裕がなくなった。

 完全に体がおかしなことになっていて、四六時中勃起していたから、学校でも家でも、とにかく影山のあの面影を思って抜いていた。

 10代の体って、1日に10回以上出せるんだ。そんなことを思いながら、出しても全然訪れてくれない賢者タイムに、俺の体一体どうなってんの? なんて悪態ついて。

 そして、予想通り、影山と俺の秘密の時間は終わった。

 まあ、親父さんもいなくなって、あいつもそれどころじゃないんだろう。

 お前が、残った家族の柱にならなくちゃならないんだもんな。

 

 葬式も埋骨も終わって、学校では普段通りの生活が始まった。

 影山は相変わらず無表情で、たぶん、こいつが親父さんを亡くしたことなんて、クラスのほとんどの人間は知らないんだろう。

 ただ、昼メシ時は、俺の机に来るようになった。何を喋るわけでもなく、黙々と飯食って、終わったら隣で本を読んでいる。自分の席で読めばいいのに。

「なー、最近のさー、俺のオナペット知ってる?」

 ふいに、そんな言葉が勝手に口から飛び出した。言ってしまってから、何バカなこと言ってんだ、俺? と思った。

 まあ、でも、お前も距離感おかしい奴だから、このくらい、サラリと流してくれるだろう。

「知るか」

 ほらな。こういう話されても、無関心なだけで、反射的に体がビクつくようなこともない。

「葬式ん時泣いてたお前ーっ! 声なんか震えててよ、可愛かったぜ──っ!」

 ああ、バカだな、俺。これは、言っちゃいけないやつだろ。

 クラスの人間は、全員俺はこういうことを平気で言う空気読めない奴だと思っているだろうが、別に、言っていいことと悪いことの分別がつかないわけじゃない。

 ただ、分かっていても、止まらないだけで。

 影山は、眉をひそめて、ひとつ溜息をつくと、無言で立って自分の席に戻ってしまった。

 ──なんか言えよ、コラ。

 不意に心に浮かんできた言葉に、ああ、俺は、こいつと話がしたかったのか、と思った。

 だったら、他にいくらでもかける言葉はあっただろうに。

 救いようのないバカだな、俺。

 

 俺は今、とてつもなく歪んでいる。

 ドMな俺が、こんなにも普通に影山に欲情してるのは、歪んでる証拠だ。

 普通? いや、普通じゃねえか。

 普通は、葬式で大事な人を亡くして泣いている男に欲情しないだろ。

 あいつの泣き顔が見たい。あいつの心をめちゃくちゃに引っ掻いて、泣かせてやりたい。

 でも、あいつに、嫌われたくない。

 歪んでいるのは俺だ。あいつのせいじゃない。

 

 放課後、俺に声もかけず帰った影山の机の中に、コンタクトケースを見つけた。

 中を開けてみたら、レンズが入っていた。

 あいつ、体育の授業で外したあと、入れ直すの忘れたのか?

 よく知らねえけど、きっと高いものだろう。家で、なくて困るかもしれない。

 帰りがけに、家に届けてやろうか?

 ふと、そんな考えが頭をよぎって、そのケースをズボンのポケットに入れた。 

 あいつのコンタクトケースが入っているポケットの中が、握り込んだ手のひらが。

 ちりちりと、まだ火のついている線香花火を握り潰したみたいに、熱かった。

 ──そのケースが、あいつの手に戻ることは2度とない、と。

 本当は、心のどこかで、知っていた。

  

 

 しばらくして、影山がD組の吉川に告られてるのを見た。

 ああ、部活、同じだもんな。空手部。ショートカットで、あんまり女っぽくはない。

 実をいうと、俺も結構告られる。全員、クラス違う奴だけど。遠くから見るにはちょうどいいんだろう。そして、はっきりいって、全員、俺の好みじゃない。

 中学の時に、ヤれりゃなんでもいいか、と思って2度ほど付き合ったが、普段の鬱憤なのかなんなのか、いざ自分がヤる方になったら自分でも驚くほどのサドっ気が発揮されてしまい、本気で泣かれて警察に駆け込まれそうになった。

 以来、その手のお誘いは全部お断りするようになった。

 断る理由は簡単。ホモだから。タマがついてない奴には勃たない。

 実は嘘で、本当は勃つけど、これで女は全員黙る。ああ、一人だけ、プラトニックでいい、とか言ってきた奴がいるけど、「何ソレ、楽しいの? 俺ヤれもしない相手と喋るほど暇じゃないんだけど」と言ってやったら、泣きながら帰っていった。

 まあ、影山は、間違ってもそういうことは言わないだろう。

 あの吉川と、付き合って、ヤるのかな。

 あの無表情鉄仮面が、女抱く時には、やっぱ欲情すんのかな。

 そう思ったら、ゾクゾクした。

 

「吉川と付き合うのか?」

……わからん」

 影山は相変わらず無表情だったが、その返事のときだけ、ちょっと困ったような顔をした。

 なんだよ。脈ありじゃんか。鉄仮面のお前の顔を、そんな風に歪められるなんて。

「付き合っちゃえよ! 横田たちがうらやましがってたぜーっ!」

 さっさと付き合って。幸せになったらいいよ、お前は。

 辛いことは、そうして忘れたらいい。

 心の中で盛大に不平不満を鳴らした声をすっぱり無視して、そんな優等生の声だけを拾い上げた。

 

 自慢じゃないが俺は演技が上手いので、どんなに心の中がドロドロしていようと顔色を変えることなく接することができる。

 ただ、それは無理をしている、というのとは、ちょっと違う。

 ドロドロしているのは本当だ。だけど、それと同じくらい、コイツには幸せになってほしい、とも思っている。

 その一方で、お前だけが幸せになるなんて許さない、めちゃくちゃにしてやりたい、とも思ってるから、我ながら油断ならないけど。

 そのうちのどれを外に出すか──それだけの問題だ。

 コントロールできるときもあれば、できないときもある。

 今はまだ、コントロールできる。というか、こいつには嫌われたくない、って感情があるから、自然と選べる行動は一択になってる。

 友人っぽい位置だけは、手放したくない。

 そんなふうに、必死で崖っぷちにしがみ付いている自分が笑えた。

 吉川と付き合って、──まあ、3ヶ月くらいは、手を出さないで、フツーにキスだけとか、高校生っぽいおつきあいをするんだろう。クソ真面目だからな、こいつは。

 それから。

 吉川の体も、あの大きな手で、触るんだろう。

 ……俺の体に、そうしたみたいに。

 

 こいつは、どうも、女と付き合う、ってことがどういうことなのかあまりよく分かっていないらしい。

 まあ、俺も、人のことを言えたモンじゃないが。

「矢代、一緒に食いに行くか?」

 帰り道、吉川と相合傘で駅まで歩くあいつが、後ろの俺を振り返った。

 ……オイオイ、お前らのデートに、俺一人ボッチで割り込めって?

 だいたい、そんなにホイホイ外食できるほど、こっちは潤沢な資金を持ち合わせてない。

「わりィっ! 俺これからオナニーっていう大事な用があってさー!」

 これは嘘じゃない。ホントに、もう前がキツくなってきてる。

 吉川の背中が、一瞬凍ったのがわかった。まあ、普通、そういうこと言われたら女子は驚くわな。

 安心しろよ。お前らの邪魔はしねえから。

 だって、ズリネタ、お前らだし。

 お前らがヤってんの、想像したら、おかわり3杯はいけるわ。

……そうかよ」

 影山は溜息をついて、もう、後ろは振り返らなかった。

 

 

 因果報応、身から出たサビ、自分で蒔いた種、とまあ、色々、その手の表現がある、ということは、やっぱり世の中はそういうふうにできているんだろう。

 ゲイだから、と嘘をついて立て続けに数人振ったことが、いつの間にか噂になっていたらしい。

 しばらく手当たり次第のウリは控えていたが、いい加減、影山ばかりでオナるのもどうかと思ったので、久しぶりにどこぞのデブいおっさんに掘らせた後のことだった。

 放課後のホームルームが終わった直後、露骨に絡まれた。

「なあなあ、矢代ってホモなの?」

 まだ女子もそのへんにいて、そういうことをわざと聞こえる声で言うってことは、たぶんコイツは何か俺に恨みがあるんだろう。いつものことながら、こっちにその覚えはまったくないが、まあ、俺が何かしたのかもしれない。(ああ、もしかして、俺が振った女に惚れてたのか?)

「先週の土曜日見かけちゃったんだよねぇ、お前がホテルに入ってくとこ。すげえデブなおっさんといたよなぁ」

 ああ、まずいな、と思った。教員にバレたら、確実に指導が入る。

「あれ、マジ? てゆうか、やっぱ売春とか、そういうの?」

「俺だったら100万もらってもあんな汚ねえの勘弁だわ」

「なあ、いくら貰ってんの? 十万? 五万?」

 バカだな、と思った。

 人気AV女優じゃあるまいし、こんなガキが、ちょっとケツ貸したくらいで、そんな金がとれるわけがない。

 高校生だから、そんな値がつく価値があると思ってるなら、相当オメデタイ奴らだ。

 顔を上げた先に、影山の姿があった。あの、なんの感情も浮かべていない目で、じっと俺を見下ろしていた。

 その目と視線が合った瞬間、周囲から、音が消えた。

 ああ、そういう目で、見るんだな、お前。

 やっぱ、気色悪ィ、か。

 そりゃ、そうだよな。俺だって、クラスの他の奴らが他所のオッサン相手に体売ってたら、気色悪いと思うわ。ましてやお前、クソ真面目だもんなあ。

 

 ……やっぱ、もう、近づきたくねえとか、思うのかな?

 そんな声が、頭の中で聞こえて、その直後、何かが焼き切れた。

 

「矢代てめえ、はなせっ!」

 

 影山が、見ている。

 俺を、見ている。

 

「矢代!! やめろ、矢代!!  ……もういい!」

 

 俺は、何をした?

 この煩い奴の口をキスで塞いで、ああ、タマを握り潰したのか。

 触ったモノは縮み上がってて、フニャフニャで、笑えた。

 影山が、俺を抱え込んで、俺の名前を叫んでいる。

 何度も、何度も。

 誰だ? この、狂ったような笑い声。

 

 

 ────ああ、俺、か。

 

 

 

真夜中の鳥 5(矢代)に続く

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真夜中の鳥 3 (矢代)

 

 お前は、大人にならないでいい。

 ずっとそのままで、可愛い────のままで。

 それが呪いの言葉だったと知るまでに、数年を要した。

 

 

 

 俺はたぶん、記憶力は悪くない方だと思っている。

 5歳くらいから小学校2年までの記憶はわりとはっきり残っていて、中でも小学校1年のときにアパートの1階に住んでいたじいさんの記憶は、今も鮮明に残っている。

 父親の姿は物心ついた頃にはもうなく、そのじいさんが俺にとって初めて身近に知った大人の男だった。

 見てくれは明らかにガイジンで、ロシア語と中国語は流暢に話すが、日本語はカタコト。そのじいさんが、日本語を勉強するために買った図鑑や絵本を、ある日アパートの階段下で一人で遊んでいた俺に見せてくれた。

 じいさんは中国語ができるので、日本語の漢字はほぼ読めたが、発音が怪しかった。それで、俺がじいさんにその本の漢字を教わり、その見返りに音読して発音を教えてやる、という遊びを、それからほぼ毎日やるようになった。

 じいさんの持っている本は、綺麗な星や星雲の写真が散りばめられた本や、一風変わった三びきの子ぶたの本(これは、狼が3つの家に住む3匹の子豚を一番効率よく捕まえるためにはどの順番で襲えばいいか、という考察でまるまる1冊が終わってしまう、要は高校で習う数学の順列組み合わせの内容を説明したものだった)、おかしな日本語の解説本とかで、学校からの宿題で読まされる物語モノよりずっと面白くて、俺は結構夢中になって読んだ。

 いくつかの本は、じいさんに譲ってもらって、家で何度も読み返して大切にしていた。その本もいつのまにか、親に売られたか捨てられたか、家から消えていたけれど。

 俺の数少ない子供時代のいい思い出のひとつだ。

 

 

 ある日、黒服の外人がじいさんの家にやってきて、じいさんがロシアに帰ることになったと知った。俺は手紙を書くから、と住所を教えてもらおうとしたが、じいさんは悲しそうに首を横に振るばかりで、結局教えてくれなかった。

 あのとき、じいさんが俺に耳を寄せて囁くように言った言葉だけが、なぜか思い出せない。

 そして、学校帰りに一階の一番端の家に寄れなくなったことにようやく慣れてきた頃、あの男が家にやってきた。 

 小学校2年までの記憶はこんなにはっきりあるのに、小学校3年から中学の2年くらいまでの俺の記憶は、所々霞がかかったみたいにぼんやりしている。

 たぶん、そのせいなんだろう。あいつが俺から距離を取り始めるまで、俺には性虐待されている自覚がなかった。

 若い頃はもてはやされたらしいロシア人ハーフの容貌をした母親が、歳をとってだんだんと日本人の血が濃く現れてきたのと入れ違うように、俺の方には年を追うごとにそっちの特徴が濃く出初めて、まあ客観的に見ても可愛かったんだろう。

 母親は、自分より息子の方が人目をひく容姿になったことが耐えられなかったのか、露骨に俺を避けるようになった。

 うちの家計は母親の水商売の稼ぎだけで賄っていて、奴は完全なヒモだったから、夜母親が仕事に出ると、その隙に家にやってきて俺を犯すようになった。

 可愛い、可愛い、と壊れたレコードみたいに繰り返しながら。

 

 どれだけクソ親父でも、戸籍上は、義理の父親だ。

 母親は家にいない。身近な大人はあいつだけで、夜の食事はほぼあいつが調達していた。親として、一応扶養義務は果たしていたわけだ。

 当時の俺には、あいつに逆らう、という思考回路はなかった。

 ただ、時折、その「可愛い」に、体が不可解な拒否反応を起こすのが厄介だった。

 いきなりひどい頭痛がして、自分の体が腐臭を放っているように思えて、吐き気がこみ上げてくる。

 そうなると、とてもセックスどころじゃない。堪えきれずに布団の上に吐いたときには、ふざけんなと殴られた。

 

 ──お前は女のコなんだからよ、これ以上育つんじゃねえよ。

 唐突に声が掠れて、以前の高い声が出なくなった夜、あいつはそう吐き捨てて俺を滅茶苦茶に殴った。

 殴られるのは別にいい。むしろ、可愛いだの好きだのと囁かれるよりもすっきりする。

 でも、その日からあいつと俺の間の距離は少しずつ離れていった。それなのに、体の一部分だけがマイナス距離で繋がっている。少しずつ、その事実に違和感を感じるようになっていった。

 決定的だったのは、多分髭が生えてきたことだったんだろう。

 いつものように、後ろから突っ込まれて、奴の手が口を塞ぐために顔にかかったときに、あいつの手がびくりと震えたのを感じた。

 体の筋肉のつき方も変わった。ようやくあいつも、自分の思い込みが痛い幻想だったってことを実感したんだろう。

 正直、髭よりも、普通まず自分と同じモノが生えている股間の方に幻滅するだろ、と思うが、まあ、あいつは絶対にバックでしかやろうとしなかったから、見えないモノはどうでも良かったのかもしれない。

 こっちのモノにも絶対触らなかったし、俺が辛くなっても自分で慰められないように、両手首は縛って頭の上に上げさせるのがお約束だった。おかげで俺は、完全に前の刺激に頼らずに後ろの穴だけでイける変態に育ってしまった。

 

 そこまで仕込んでおきながら、男の体になった途端に、俺は「可愛く」なくなったらしい。

 これ以上変わるなら、前についているものを切り落とす。

 そう脅されて、初めて、あいつの「可愛い」がそういう呪いだったんだ、と理解した。

 折しも、学校では第二次性徴期に合わせて、性教育が始まっていた。その一環で、大人から身を守るための知識、なんてものも否応なく詰め込まれた。

 俺からしてみれば、そんなもの、今頃言われても、って事例のオンパレードだ。知ったからといって過去が変わるわけじゃないし、すっかり後ろの快感を覚えてしまった体が元に戻るわけでもない。

 そもそも、望んで得た体験じゃないが、その行為自体は今となってはそれほど嫌というわけでもない。どんな手段であれ、自分も適当な妄想に浸ってイければ、気持ちいいことに変わりはない。正直、最初の2年くらいは誰かに助けて欲しい、と思っていたが、この頃にはもはやそんな気は失せていた。

 助けは来ない。

 そのことに暗い愉悦を覚えて、むしろ体に火がついた。

 結局、あの授業で学んだものは、自分がどうやら虐待されていたらしいこと、自分がこれまでしてきたことは、世間一般にはやってはいけないこと、後ろめたいこと、であって、おおっぴらに語れば間違いなくドン引きされるか、教師に目をつけられて面倒なことになる、ということだけだった。

 

 俺の高校入学に合わせて全く姿を見せなくなった母親は、1ヶ月に1度ほど、なんとか節約すれば家賃を払って高校に通えるだけの金を置いていった。俺が家にいない間に。

 でも、自分で金をやりくりしたことがなかった俺は、最初の1ヶ月で早々につまづいてしまって。

 公立校とはいえ、入学時は本当に金がかかる。制服、体操着、上履き、教科書、学校指定の参考書、その他諸々。

 参考書まで買えば、明日にでも食うに困る、と分かっていたが、どうしてもそこは譲れなくて、プリントに書かれていた本を全部買って、財布は空になった。

 

 初めて犯された日に感じた、真っ暗な穴から自分の中身が漏れ落ちていくような空虚な感じは、あの日からずっと続いていて、漠然と、いつか自分は、全て流れ出てしまって無くなるのだろう、と感じていたように思う。

 あの男が姿を消して、その流砂を止める者がいなくなった。

 その心許なさに、まったく堪えていなかった、といったら、多分嘘になるのだろう。

 だから、あのとき、自分にも援交ができるかも、なんて思ったのかもしれない。

 歌舞伎町二丁目に行って夜の路上に立っていれば、勝手に声がかかる、と噂で聞いて、実際に立ってみたら5分で最初の男が釣れた。

「仕込んだのは義理の親父だけど、それ以外に売るのは初めて」

 そういって誘ってやったら、5万円くれた。

 

 相手には必ず、手を縛ってくれ、と頼んだ。

 手を縛られて頭上や背中に縫い付けられると、自分では慰められない。それが、たまらなく被虐感を唆る。こちらの面倒なんか見ないで、勝手に突っ込んで、勝手に出すだけ。その放置感に、ゾクゾクした。

 可愛い、とかほざかないのがいい。変態、クズ、と罵られると、胸の奥にひんやりとした風が通るようで、心地よかった。

 より過激なセックスを求めて、選ぶ対象はどんどん危ない方向へとエスカレートした。

 最初は金のために始めたことだったが、高2に上がる頃には、すっかり犯されるのも目的になっていた。

 

 

 そんなこんなで、俺の性生活は乱れ切っていたが、学校生活には現実味がないほどに影響はなかった。

 普通に朝起きて、学校に行って、授業を受けて、誰もいない家に帰る。

 誰にも言わなければ、誰も気づかない。

 話題には頻繁に上がる。とくに女子。知らない男についていくな、援交するな、と、教師は結構頻繁にホームルームで注意していた。

 ソレ、散々ヤりまくってる人間が、ここにいるんだけどな。

 俺がやってるくらいだから、クラスの女子にも、もしかしたら数人いるかも。でも、大人たちは気づかない。

 世の中は、自分達に無関心だ。

 その無関心に驚きつつも、どこかでほっとしてもいた。

 せっかく、それなりに「上手く」やれているのだから。

 もう、誰にも、この生活を乱してほしくない。

  

 

 ただ、学校生活で唯一困ったのが、距離感の問題だった。

 どうやら俺は、適正距離がおかしいらしい、と、中学に入学したとき気づいた。

 これまでタメ語で話していた近所の年上の遊び仲間が、急に先輩だの後輩だのと階級化され、上の学年が通るときには立ち止まって先輩が通り過ぎるまで頭を下げ続ける。会釈なんて可愛い語感とは縁遠い、生活の中にいきなりブチ込まれた社会距離に、誰もが最初は戸惑う。

 それでも、数ヶ月もすれば、その距離を学んで身につけていくのが、あの年齢の子供、なんだろう。

 けれど俺は、いつまでたってもその距離がわからなかった。なにしろ、家では、距離マイナスにまで食い込んだ極端な密接距離か、公衆距離しかなかったからだ。

 近づきすぎては先輩に生意気だとボコられた。クラスメイトは、俺が近づくと、反射的に身を引いて少し距離をおいた。

 

 反射的に身を引いて、その自分の行動にはっとしたような、ちょっと気まずげな、申し訳なさそうなクラスメイトの顔を見るたび、心臓に氷のかけらが滑り込んだように感じた。

 また、近すぎた。

 わかっているのに、どうしてもうまく距離が計れない。

 そのうち、自分の体から腐臭を感じるようになった。

 臭いゴミは、一刻も早く部屋の外に放り出すに限る。

 授業中は我慢してもらうしかないにしても、休み時間や放課後まで迷惑をかけることもない。

 だから、早晩、一人で行動するようになった。

 

 おそらく、自分が気にするほど、周りは俺のことなんか気にはしていなかったのだろう。給食の時間に声をかけてきて一緒にメシを食ってくれた奴もいるし、授業でペアを組まされたからといって顔をしかめられたこともない。

 それでも、自分にまとわりつく腐臭が嫌で、気がつけば、俺の学校生活の中の距離は、公衆距離しかなくなっていった。

 

 

 高校は同じクラスに同中の奴がいなかったこともあり、帰宅部の俺は中学よりもさらに薄い人間関係の中、学校生活をスタートすることになった。

 影山の方は、この一年あまりの間、俺のことをどう見ていたのか、正直よくわからない。とにかく無口で、感情がよくわからない男だったし。

 ただ、時々、視線を感じた。無愛想でいつも眉間にシワを寄せているような奴だったが、その皺の彫りが少しだけ深くなった目で、時折こっちをじっと見つめている。
 振り返ると、そこにはもうその眼差しはない。

 俺はこの薄い髪色のおかげで人にジロジロ見られるのは慣れていたから、別に見られるのは気にしなかった。

 でも、そんな目で俺を見る奴は他にいなかったから──

 その深刻な空気が、ずっと気になっていた。


 影山との奇妙な遊びが始まって、影山の保健委員当番が終わり、二学期になり、視聴覚室でひっそりと会うようになってからも、影山はずっと無口だった。

 クラスでも、とくに話さない。

 ただ、二人だけで会って、触る。触らせる。それだけの関係だ。

 こいつもたぶん、距離感がおかしいんだろう。

 ふと、そんなことを思った。

 肩を組むとか、小突き会うとか、現実の世界の中で、別に親密な関係でなくとも距離がゼロになることは、実はわりと頻繁にある。

 そういうのを、相手にへんな解釈をさせないようにサラリとやれる人間が、たぶん人付き合いをうまくやっていける人間なんだろう。

 それを考えたら、影山のコレは確実に大失敗だ。どう贔屓目に見ても、エロい意味にしか受け取れない。

 ただ、俺がそう受け取らなければ、関係は成立するし、継続もできる。その条件つきのイレギュラーな感じが、俺は気に入っていた。

 ケロイドが好きなんて、まあ、変態に片足の指くらいは突っ込んでいる。

 その安心感のせいなのか。

 こいつに触られているときだけは、こんなに近くにいても、自分の体から匂いがしなかった。

 

 

 

 影山の趣味を、性的な意味に受け取らないこと。

 それが、この関係が続くための絶対必要条件だと、そう、わかっていたのに。

 どうして、あのとき、あんなことを言ってしまったのだろう。

 

 

 

真夜中の鳥 4(矢代)に続く

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真夜中の鳥 2 (矢代)

 
「矢代、やる。……見えてるぞ、腕」

 俺がこっそり絆創膏男、と名付けた影山は、それから、頻繁にそういって俺に数枚の絆創膏を渡してくるようになった。

 曜日は決まって月曜日。つまり、週末に、ヤクザ相手にやられまくった直後だ。

 困ったことに、手を縛られないと後ろではイけない体になってしまった俺は、どれだけ隠しても手首に隠しきれない痣を抱え込むことになってしまった。それでも普段はなるべく見えないようにしているが、そこにある、とわかっていれば、簡単に見つかってしまう。

 影山は、休み明けには必ず俺の手首を見てくる。世話好きなんだかなんだかよくわからないが、とにかくそれを確認しないと気がすまないらしい。

 

 しかし、だからといって、小さな絆創膏数枚を渡そうとか、思うか? 普通!

 

 「わーっ、ばんそーこーだーっ! しかも今日は3つも! うれしーなーっ、どこに貼ろー、わくわくっ!」

 

 わざと茶化してみても、会話に乗ってきたことは一度もない。

 普通、クラスメイトが頻繁に怪我してるのをみかけたら、まず「何かあったのか」とか聞くもんなんじゃないか?

 もう少し親切な奴なら、「困っているなら相談に乗る」とか。

 そこまで考えて、いや、俺だったら無視だな、と思い直す。

 まあ、無視、ならわかる。

 でも、わざわざ役にもたたない小さな絆創膏を渡して、俺はお前の傷に気づいてるぞ、とアピールするだけの行動に、一体なんの意味がある?

 

 正直なところ、最初は、こいつ、担任にチクるんじゃないか、と警戒した。どうも影山にバレたらしい、と気づいた日には、体中にある鬱血痕や傷跡の言い訳を10以上も考えて、思わず徹夜してしまったくらいだ。

 でも、それから1ヶ月、結局俺の身の回りでは、何も起きなかった。

 だから、影山はたとえ気づいていても、それを誰かに言うつもりはないのだ、と理解した。

 いうつもりはない──そして、それ以上踏み込むつもりもない。

 けれど、ただ、お前に気づいている、というメッセージだけを寄越してくる。

 ──鬱陶しい。

 カンジ、という名前のおかげで、基本好意的な印象しかなかったコイツを、初めてそんな風に思った。

 

 その印象が変わったのは、廊下の曲がり角でふらついて肩をひどくぶつけ、その弾みで脱臼してしまったある日のことだった。

 学校はすでに夏休みに入っていたけれど、さすが進学校、八月の前半までは毎日希望者が受けられる補講が午前中に入っていた。

 タダで勉強させてくれるなら行かない手はない。ただ、冷房設備なんてない真夏の学校は座ってるだけで滝の汗が溢れてくるような有様で、相変わらず長袖で通している俺にはかなり厳しい環境だった。

 まあ、前日に例によってヤりまくった拍子に、足首をひねってしまって、それでふらついた、というのもあるけど。

 それより、壁にぶつかったくらいで脱臼した自分の肩に驚いた。だいたい自分ではめ直すことができるが、その日は暑くて力がでなかったこともあって、うまくはまらなかった。

 これは、もう保健室で直してもらうしかない。

 そう思って訪ねた先に、影山がいた。

「あれっ、保健室の先生は──?」

「出張だそうだ」

「なんでいんの?」

「保健委員」

 影山は手に化学Iの教科書を持っていて、そういえば補講に出ていなかった、と気づいた。

「あーーっ! そうだ、お前だ!家が開業医だからって理由で保健委員押し付けられてたの。 おぼっちゃま!」

 茶化してそう言ったが、本心ではそれほどおぼっちゃまだと思っていたわけではない。うちのクラスには、どこぞの企業のお偉いさんの息子だの親が大学教授だの、それなりに経済的余裕のある中流家庭の子息がゴロゴロいる。俺みたいな家庭環境の学生は少数派だろう。

 どこか別の世界の人間。影山も含めて、俺にはクラスメイトがそんなふうに見えていた。

「どうした?」

「ん? あ、そうだった。お前、脱臼直せる?」

 影山は、片眉だけ持ち上げてこちらを見た。体育の授業があったわけでもないのに、なんで肩が外れるんだ、といいたげな表情だ。

「素人が弄るもんじゃねえんだがな……──座れよ」

 影山に外れた右肩を向ける形で座ると、影山は肩の筋の様子を調べるように触って、それから右肘を90度に曲げて、そのまま斜め上にぐっと押し込んだ。さすがに激痛が走ったが、なんとか声は飲み込んだ。こういう時、痛みに慣れていてよかった、と思う。

 脱臼して血の気がひいた腕に、握られた影山の手のひらが熱い。

 そのくっきりとした熱の感触に、背筋がぞわりとした。

「──────っ………

「大丈夫か? 痛みは?」

……大丈夫。サンキュ、たぶんハマった」

「筋痛めてるかもしんねえから、必ず病院行けよ」

 至極もっともな影山の心配と助言に、思わず口元が緩む。

 ──こいつは、そう簡単に病院になんか行けない人種がいるなんてことは、考えもしないんだろう。

 経済的にも無理だし、医師から児相にでも通報されたら面倒なことになる。この程度の怪我で、行けるわけがない。

「いや──っっ、悪ィ悪ィ。助かったよっ、カンチくん」

「莞爾」

「かんじくん」

 影山の助言にはわざと返事をしなかった。からかうつもりで名前を間違えてやったら、むっとした表情で訂正してきた。

 お前、自分の名前、気に入ってるんだな。

 医師の父親につけてもらったのだろうか。

 少し、うらやましいな、と思った。

「しっかし、壁にぶつかっただけで脱臼とかあんだな──っ、びっくり!」

 影山から、何をどうしたら夏休みの補講中に肩が外れるなんて事件が起きるんだ、と疑い大盤振る舞いの視線を感じたので、面倒なことにならないよう一応状況説明の一言をはさんでやる。

 と、そのとき、影山が妙にきっぱりとした声で言った。

「傷、見せろ」

……は?」

「手当てしてやるから。他の傷」

 一瞬、思考が止まった。

 今? このタイミングで、なのか?

 この1ヶ月、絆創膏渡すだけで、決してそれ以上は踏み込んでこようとしなかったくせに。

「いやいや、いらねーし」

「脱げ」

「手当てって傷じゃないって」

「見せろ」

 こっちが言い終わる前に、強引に言葉を被せてくる。

 常日頃の無愛想な影山らしくない物言いに、ご苦労なことだ、と、舌打ちしたくなった。

 目の前の患者を放置するのは、医者(の卵)がすたる、ってか?

 

 その頑なな態度に既視感があった。

 そういえば。

 球技大会のときのコイツも、やけに頑なだった気がする。ただぶつかってボールを頭にくらったというだけでは、普通あそこまでは心配しないだろう。まあ、熱中症になりかかっていたのは事実だが。

 でも、もしもコイツが、もっと前から、俺の体中にある傷に気づいていたとしたら

 不意にそのことに気づいて、あ、と思った。

 そうだ。それを、あの球技大会のときに確かめたのだ。この場所で。

 あのとき、ポカリスエットを飲み干した後、俺はホッとしてしばらく寝落ちてしまった。あの時は本当に泥のように疲れていて、袖を多少捲られても気づかないくらいには寝入っていた自信がある。

 ──マズったな………

 すでに肩を直してもらっている手前、これ以上拒否したら、余計怪しまれる。

 おそらくコイツは、それも計算して、今日まで俺が拒めない機会を伺っていたのに違いない。

 ──まあ、見られてもいいか。いくつか適当な言い訳は考えてあるし。

 信じるかどうかはともかく、俺がそう断言すれば、教師にチクるような真似は多分しないだろうし、チクられたところで、影山の勘違いだと言い張ればいいだけのことだ。

 


「こっちへ、来い」

 有無を言わさない口調でそう言われて、渋々従った。あの時寝かされたベッドだ。影山は治療用の脱脂綿やら包帯やらが詰まったカートを引き寄せると、ベッドの周りのカーテンをきっちり閉めて、もう一度言った。

「ほら。脱げよ」

 自分でも笑えるが、その口調を、ちょっとエロいと感じた。

 保健室で、ベッドの周りにカーテン引いて、脱げ、って。

 コイツ、自分の言葉が学園モノAVの台詞そのまんま、って気づいてるのかね?

 見るからに奥手な影山は、当然そんな事実には気づいていないだろう。

 そう思っていたのに、影山はいつまでたっても引っ張ってきた治療セットに手もつけず、こちらの傷を眺めている。

 なんだこれ。そういうプレイ?

 脳内で思わず茶化してしまったのは、たぶん、その、見られている、ということに一瞬背筋がぞわりとしたからだ。

 俺は自分の外見がどうだろうと興味はないので、正直、自分で傷の位置なんてまともに見たことがなかった。

 でも、こいつの視線で気づかされる。どこに、どんな傷が横たわっているのか。それを見て、こいつが何を思うのか。

 醜い……痛々しい……エグい……

 他人の視線なんか気にしたことがなかった俺が、それを気にしていることに、はっとした。

 つと、影山の指が伸びてきて、そのひとつに触れた。

「─────」

 輪郭をなぞるように、指先でいじる。その指先から、熱を感じる。

 つか、痛いんだけど?

 まだ癒えきらない瘡蓋を逆撫でされてヒリヒリする感覚と、その傷口から注入される熱に、体がじわじわと侵されていく。

 何か言うべきなのか、迷っている間に、その指は腹の上を滑って、今度はすでに完治して薄くなり始めている煙草の焼き痕に触れた。

 これは、もはや、治療では断じてないだろう。

「あのさあ、影山ぁ」

 このままではあらぬところが隆起してしまいそうで、ついに声をかけた。

「わっ悪いっ……つい」

 つい、って。

「傷とか、好きなのか?」

 影山は、岩のように固まって俯いている。聞いておきながら自分でも半信半疑だったが、どうやら図星だったらしい。

 そういう性癖もあんだな。

 まあ、ドMの俺が言うこっちゃないだろうが。

「んー?」

 俯いた顔を下から覗き込んでやったら、影山はようやく消え入りそうな声で呟いた。

……傷とゆうか……火傷跡とか……ケロイドが……

 ケロイド好きねえ。

 人の傷を見て(抉って)燃えるサドとは何人かヤったことがあるが、既に治って不恰好に盛り上がった皮膚に興奮する奴もいるんだなあ、と、素直に感心してしまった。

 コイツはどうやらその趣味をかなり恥じているようだが、そんなもの、俺がこれまでに散々やられてきた猟奇趣味の数々に比べれば、人畜無害の優等生以外の何モノでもない。

「なーんだー、そういうことか~! 早く言いたまえよっ」

 そう言ってやった直後の、影山の呆気にとられたような表情がやけに新鮮で、俺は嬉しくなってしまった。

 

 

 人間は、矛盾でできている。

 抱え込んだ秘密。それを暴かれる恐怖。

 けれどその一方で、その秘密を声高に叫んでしまいたい衝動が、己を崖っぷちから奈落の底へつき落とそうとする。

 その暗闇に堕ちる刹那を想像する時。

 心臓がつめたく冷える感覚と共に、仄暗い甘さを感じるのは、何故なんだろう……。

 

 

 クラスメイトに私生活を詮索される緊張感から、思いがけず逃れた開放感のせいもあったのかもしれない。

 あとから思えば、俺はこの時、柄にもなくハイになっていた。

 いままでに経験したことのない感覚。

 初めて、クラスメイトと共有した秘密。

 涼しい顔の下に人に言えないモノを抱え込んでいる人間が、自分のほかにもいる、ということを知ったときの、密やかな興奮と安堵。

 

 面白いから、コイツでしばらく遊んでやろう。

 散々俺の傷痕を触らせた後で、また明日、保健室に来る、と約束して、俺はご機嫌で保健室を後にした。

 

 

 

 そう、遊んでいるつもりだった。

 それが、まさか、あんなことになるなんて。

 その時の俺には、想像もできなかった。
 

 

 

真夜中の鳥 3(矢代)に続く

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真夜中の鳥 1 (矢代)

 一


 出席番号は、いつも最後か、最後から2番目。

 1番から名前を呼ばれて、クラスのほぼ全員が返事をし終わった頃には、苗字が「や」で始まる人間のことなんて、誰も気に留めていない。

 だから、小さい頃は、「あ」行か「か」行で始まる名前に憧れた。

「あー、影山莞爾」

「はい」

 高校に入学して、最初のホームルーム。ぼうっと窓の外を見つめていたら、ふいに、その名前が、耳に飛び込んできた。

 カゲヤマ カンジ。

 どっちも、カ、で始まるのか。

 もらったクラス名簿を広げてみると、出席番号5番の欄に、まず一発では書けなそうな漢字が並んでいた。

 世の中にキラキラネーム、なんて言葉が流行り出して暫く経つが、そうでない名前の中でもちょっと古風で男前な名前だ。

 その甘さのカケラもない漢字の並びに、5秒ほど視線が釘付けになった。

 うらやましい。この字、格好いいな。

 自分の名前は嫌いで、見たくなかった。あいつを思い出すから。

 小さい頃は嫌だった出席番号最後の俺の出欠は、予想通り私語が始まったクラスのざわめきの中にかき消されて、俺はなんとなく安堵を感じた。

 

 


 高校に入って最初の1年は、はっきりいって俺はほとんど空気だったと思う。

 中学時代に人との距離感が分からず痛い経験をしていたこともあって、先輩には絶対に近づかないようにしていたし、クラスメイトとも表面上の付き合いしかしなかった。

 それで許される高校という場所を、俺は結構気に入っていた。全部公衆距離か、近くても社会距離くらいで事が足りる。中学とは大違いだ。

 人付き合いをしない分、勉強はそれなりに真面目にやった。中間期末もクラスで10番以内には常に入っていたし、全国模試も得意科目は100番以内を何度かとった。

 そもそも、この高校を選んだのだって、地元ではちょっと有名な進学校だったからだ。

 教師は徹底して放任主義。生徒の自主性を重んじるという名目のもと、そこそこ勉強が出来る奴らに対しては、私生活について煩く言わない。

 こちらから相談しない限り、家庭の問題に踏み込んでくることもまずなかった。

 色々と触られたくないことが多い俺には、好都合だったわけだ。

 

 進学はしない。というか、できない。

 高校まで行けたのだって、奇跡みたいなもんだし。

 でも、だからこそ、親の金で行かせてもらえる高校くらいまでは死ぬ気でやらないと、食っていけない、と本気で思った。

 

 


 1年の最後に、進路についての調査があった。

 文系か、理系か。全部で7クラスある普通科のうち、文系クラスが5つ、理系クラスが2つ。それぞれのクラスに進む2年生以降、カリキュラムはガラリと変わる。

 正直、どっちでもよかった。別に進学するわけじゃねえし。

 漠然と、どうせ高校で終わるなら、広く浅く、で文系の方がいいか、と思った。

 

 でも、影山が──まともに話したことなんて、2~3度しかないあいつが、迷わず理系を選んだ時。

 気がついたら、自分も理系を選んで、調査用紙を提出していた。

 なぜ、影山が気になっていたのか、自分でもよくわからない。

 強いていえば、たんに、出席の時に、あいつの名前が呼ばれるのが心地よかっただけ、なのかもしれない。

 カンジ。カッコいいな。

 そんなふうに、面倒臭い感情も思考もなく、ただ漠然といいな、と思える瞬間が好きだった。

 同じクラスになるかどうか、確率は1/2。同じクラスになれれば儲けもの、くらいのつもりだったけど、蓋を開けてみれば、二人とも27組。

 2年から3年はクラス替えがないから、もう卒業まで3年間同じクラスになる。

 なんとなく、心がじんわり暖かかった。


 影山との奇妙な付き合いが始まったきっかけは、2年の中間考査の後のしょうもない出来事だった。

 基本座学は真面目にこなしていた俺だが、体育だけは話が別だった。

 この頃の俺は、ほぼ毎週、ヤクザやチンピラ相手のセックスに明け暮れていた。

 縛られたり煙草の跡をつけられたり、全部自分が強請った結果なので文句はないが、さすがにこれを教師やクラスメイトに見られるわけにはいかない。

 そういう理由で、肌に紫外線アレルギーがある、というウソの理由をこじつけて(まあ完全に嘘でもない、実際に色素が薄いおかげで、炎天下長時間日光に晒されると肌が火傷みたいになる)、体操着はわざと半袖半ズボンを買わずに、真夏でも長袖長ズボンで授業を受けた。さすがに熱中症の危険があるときは、見学だ。


 その日は教師が中間考査の採点に集中するため、全校で一斉に行われる球技大会で、まだ6月だというのに風もなく、蒸し暑い日だった。

 ソフトボールかサッカーか、バスケットボールの三択で、日陰にいられるだけバスケットボールが一番マシだろうと選んだ選択がまずかったのだろう。

 体育館の中は蒸し風呂のようで、朦朧としてパスを受け損ねてボールが側頭部を直撃した直後に、視界が完全にホワイトアウトした。

 

「──代、矢代! 聞こえるか?!  聞こえたら、返事しなくてもいい、できる合図を返せ!」

 遠くからそんな声が聞こえ、世界に少しずつ色が戻ってくると同時に、自分の上半身が仰向けになっていることに気づいた。なにかが、背中を支えていた。

 ──何か? 違う。これは、人の腕だ。

「矢代! ……誰か、先生を呼んできてくれ! 矢代の反応がない!」

 ふっと体が下に沈んで、背中を支えていた腕が俺の体を床に横たえようとしているのを感じた。その瞬間、火花が散ったみたいに、意識が現実に戻ってきた。

 まずい。おおごとになるのは、絶対にまずい。

 必死に、両足に力を込めて、床に寝かされるのを阻止した。

「──いい。……聞こえてる」

 視界はまだぼやけている。でも、周囲をクラスメイトが取り囲んでいる中で、一番近くで自分の顔を覗き込んでいるのが誰なのかはわかった。

 ──影山。

 そういえば、パスを受ける直前、敵ディフェンスとして一番近くにいたっけ。俺は、影山を避けてパスを受け取ろうとして、ボールを頭に食らった。

 いや、もしかすると避けきれなかった? この心配気な顔は、罪悪感だろうか。

「すまん、矢代。足が滑ってお前に体当たりしちまった。頭、大丈夫か」

「──平気。……どっちかっつーと、暑さにやられた。──ちょっと休めば治る」

 無理矢理気力を振り絞って、影山の腕から逃れ、自分の足で立つ。多少ふらついたが、二、三歩で立て直して、コートの外に出る。

「川西、もう大丈夫だから、先生呼ばなくていいよ。試合は、悪いけど誰か代わって」

 影山の叫びを聞いて、今にも体育館から飛び出そうとしていたチームメイトを呼び止めた。教師に知られれば、検査だのなんだのと面倒なことになる。それだけは、避けなければならない。

 と、背後から、小さな溜息が聞こえた。振り返ると、影山が、まだ試合時間が残っているというのに、一緒についてコートを出てきていた。

「保健室。付き添うから、少し横になって休め」

「大丈夫だって。壁に寄りかかってしばらく休めば──」

「お前、30秒意識がなかった。ボールの直撃受ける前から足元ふらついてたしな。たぶん熱中症になりかかってる。とにかく体冷やして、水分とって休め。濵田、俺も抜けるから、悪いがあとを頼む」

 

 

 妙にてきぱきと指示する影山に、なんとなく迫力で押されて、大丈夫だというのに片腕を担がれて、保健室のベッドに転がされて数分。

 影山が今日の大会のために持参していた水筒から、凍らせたポカリスエットの溶けたのを湯呑みに移して渡してくれて、それを一気に飲み干したところでどっと疲れが襲ってきた。

 成程、結構ヤバかったのかもしれない。

 0℃ポカリスエットが喉を通って胃をキンキンに冷やした瞬間に、自分の体温が爆上がりしていたことを知った。

「あ───、生き返る…………

 そういえば、熱中症は、炎天下もヤバいが今日みたいな湿度が高くて風のない日を一番警戒しなきゃいけないんだった。

 影山は、何か言いたそうな目でじっとこちらを見つめていたが、そのうちまた小さく溜息をつくと、ベッドの周りのカーテンをひいて、自分はその外に出て言った。

「そのポカリ、全部飲んでいいから。とにかく、少し休め。俺はしばらくはここにいるから、頭痛がするとか、気分が悪いとか、とにかく何かあったら呼べ」

 

 

 

 冷静に考えれば、このクソ暑い日に長袖なんか着やがって、なんて悪態のひとつくらい、あいつの口をついてもおかしくない状況だった。

 でも、影山は何も言わなかった。

 つまり、このとき、すでに影山は気づいていたんだろう。

 俺が長袖の体操着の下に隠していた、無数の傷跡に。

 

 

 

真夜中の鳥 2(矢代)に続く

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