真夜中の鳥 5 (矢代)
五
「──まあ、そういうことだから。……本当は、親御さんとちゃんと話したかったが……だが、お前は、本当は自分が何やってるかわかってるんだろう? ……お前は頭がいい。ちゃんと、自分のため、将来のため、何を選ぶべきか分かっているはずだ。……家庭の事情は、大体わかってる。悩みがあるなら、相談にも乗る。だから、一人で溜め込むな。自暴自棄になるな。しんどかったら、助けを求めろ」
「──はい」
「2度とやるなよ」
「──はい」
20分、か。
2週間ぶりに登校した学校の屋上で、ぼんやりと空を仰ぐ。
意外に、粘ったな。島田のやつ。
クラスメイトに手を上げた科で2週間の停学を食らったあと、担任の島田は俺を呼びつけて、何があったのかを聞き出そうと、あの手この手で攻略してきた。
色々ユルい学校なので、校則にあるわけじゃないが、流石に売春はアウトだ。あんなことになった以上、あの二人が土曜に見たらしい風景を担任にチクらなかったわけはなく、従って指導が入らないわけもなかったが、何分肝心の証拠がない話で、よくぞ20分粘ったと素直に感心した。
2度とやるなよ、は、クラスメイトに手を上げたことではなく(まあそれもあっただろうが)、ウリのことを言っているのだろう。お互いに、主語を隠した会話で、なんのことを話しているのか分かっているくせに、しらを切り通している。ばかばかしいことこの上ない。
ああ、でも、目つけられたから、しばらくは痕が残るようなことは控えないとな。
こうなることは予想がついたから、停学処分を食らった日は、教員に捕まる前にさっさと学校から逃亡した。停学処分は、家の留守電で聞いた。2週間ならちょうどいい。緊縛痕も、ナイフで薄く切られた痕も、そこそこ消える。
綺麗になった両手首を見た。この2週間は散々ヤりまくったが、縛らせてはいない。
つまらんな。だいたい、SMオプションなしじゃ、代金釣り上げられねぇし。
1ヶ月で家賃光熱費、学費交通費込みで8万チョイなんて、自炊の天才でもなければ回せるはずもなく、俺にとって最早ウリは生活の手段だった。普通の家庭の人間のふりをするためには、必要なモノもある。漫画や雑誌を買ったり、他の奴に付き合って買い食いしたり。
まあ、付き合いの買い食いは、もう必要ないかもしれないが。
今日登校してみたら、クラスの男子は、明らかに俺から距離を置くようになってて、心底笑えた。
全員が見事に公衆距離だ。
心配しなくても、お前らみたいなナヨっちい奴らとヤりてえとか思わないんだがな、と心の中で呟く。喧嘩したら俺より弱そうな奴ばっかりだし。まあ、空手部と柔道部の連中にはかなわないだろうが。
それより、今欲しいものがある。ウォークマンが欲しい。影山が、なんか聞いてた。
こういうとき、パパ活できる女子はいいな、と思う。欲しい、と強請れば買ってもらえる。
残念ながら、俺の客はソッチ系の対極にあるような奴ばかりだから、そこは期待できない。
あいつ、音楽は何が好きなのかな。
空には、綿菓子のような雲がかかっていて、それをぼんやり眺めていたとき、屋上に人影が現れた。
「二週間何やってたんだ?」
必修単語のリレー練習6000、とか書かれた本を持って隣に座った影山が、そんなことを聞いてきた。
「セックス」
単刀直入に返した。それしかしてないから、それ以外答えようがない。
クラスの連中は皆誤解しているようだが、俺は基本、嘘はつかない。隠していることは沢山あるが。
「……親に、怒られたんじゃないか?」
いきなり、影山が、思い切り斜め上の質問をしてきて、思わず吹き出しそうになった。
そこ?! 今、気にするとこ、そこなのか?
「ないないっ! 会ってねーし、ここ一年くらい」
「そう……なのか?」
少し動揺したような声に、あ、そうか、と思った。
お前、親父さん亡くしたもんな。きっと、親父さんのこと、大好きだったんだな。
親父さんが誇りに思えるような息子でいよう、と、いつも思ってるんだろう。
もしかすると、コイツは、俺の性癖のこと、まだよくわかってないのかも知れない。
クソ真面目だし。あんなエロい遊び仕掛けてくるくせに、奥手だし。
──そうでなければ。
あんなことがあって、まだ俺にこんなふうに近づこうとか、普通、思わないだろう。
「それよりお前、どうするんだ? 進路」
また、斜め上どころか、360度回って元に戻ってきたみたいな質問が降ってきて、正直、ちょっと呆れた。
「進路? まだ先じゃん」
「バカ、もうすぐ2年終わるんだぞ。お前本当に何も考えてないんだな……」
そういえば、3学期に入ってから、何度か、進路希望調査みたいなのを書かされた。俺はその度に就職、とだけ書いて提出していたから、特に気にもしていなかった。
「影山は……大学?」
「ああ、医学部に進む」
ああ、それで、必修単語ね。
「へえ……いいんじゃないか?」
親の跡を継ぐ。お前らしいと思うよ。真っ当で。
「矢代はなりたいものとかないのか?」
今日の影山はやけに饒舌だな、と思った。普段は、俺が何かしら下らないことを喋りかけて、こいつがそっけなく答える、の繰り返しだ。
……考えてみたら、そんなこと聞かれたの、人生で初めてかもしれない。考えたこともなかった。
「そうだねー、芸能人とかどーお?」
「……お前ならなれるんじゃないか?」
「マジ?」
「お前は他の奴と違うからな」
「あはっ、やっぱりー? オーラかねえ」
いや、そこ、馬鹿か、って笑うとこなんじゃないの?
もっと現実見ろ、とか。
心の中で思いっきりツッコんで、不意に、虚しくなった。
ああ、本当は、この会話もどうでもいいのかもな。たんに、一応友達っぽい立場にいたから、あんなことやらかした俺を、一応心配してるポーズなのかも。
本当は、もう近づきたくもねえけど。
気を遣わせて悪いな、影山。
「……悪い」
一瞬、心の声を、読まれたかと思った。
「……俺はお前を、可哀想な奴だと思ってる。お前が痛々しくて可哀想だと、友達なのに、思っている」
──何を言われたのか、わからなかった。
可哀想……痛々しい?
お前が、俺を?
「……なんで?」
「お前は……ひとりだからだ。……俺もだが」
何の話だ?
親とは1年会ってない、とか俺が言ったから、そういう話になったのか?
お前も、親を失って、一人になったから?
まさか、お前、母親も、もういないのか?
頭の中をめまぐるしく情報が錯綜して、それでも、影山の真意がわからなくて。
まったく芸のない一言しか返せなかった。
「……ひとり」
「そうだ」
「へえ」
「お前は変わってるが嫌な奴じゃない。俺のおかしな趣向にも、お前は笑わずに付き合ってくれた」
そっち、なのか?
今、このタイミングで?
お前の趣向なんて、俺からみれば、ストレートの一部をこっそり見えないように金髪にしました、ってくらいの微妙な「おかしさ」でしかない。
でも、言われて気づいた。たしかに、お前もどこかおかしいんだろう。世間の「普通」に比べれば。
なんと知らない内に、俺は影山にいわれのない共感を覚えられていたのだ。
俺は、呆然として、何も言い返すことが出来なかった。
影山は、しばらく黙り込んで、それから正面を向いたまま、ひどく真剣な表情で呟いた。
「俺はお前が大事だ。 親友として」
ああ、なんだ、これは。
怒り? 嫉妬?
喜び? 痛み?
──恐怖?
「親友? 何ソレッ、キモッ!!」
人間、あまりに色々な感情がぐちゃぐちゃになると、笑うことしかできなくなるらしい。
そういえば、笑いの表情は、ヒトが猿だった時代には卑屈さの発露だったんだった。
楽しいから、嬉しいから笑うなんてのは、マトモな人間として、成熟した人類にだけ許される特権なんだろう。
だから、こんなにぶっ壊れている俺が、ここで笑うのは、正しいのだ。
バカみたいに、腹を抱えて。
俺はいつまでも、ゲラゲラと笑い転げた。
親友。いい言葉だな。
お前みたいな奴は、そんなに簡単には、その言葉を使わないんだろう。
その大切な言葉を使う相手に、俺を選んでくれて。
こんなに、なんにもない、空っぽの俺に向けてくれて。
心底、嬉しいと思うよ。
親友。ひどい言葉だ。
お前が本気で、嘘偽りない言葉を吐いている、とわかるからこそ、絶望する。
何もない俺が、たった一つだけ見た、未来。
明日も、学校に行けば、お前がいる。
でも、高校を卒業してしまったら。
未来のお前の隣を歩くのは、他の、もっと優しい誰か、なんだろう。
お前の未来に、俺は、いない。
「ただいま──」
誰もいないとわかっているのに、なぜそんな言葉で家の扉を開けるのか、正直、自分でもよくわからない。
遠い昔に、その声に毎回きちんと答えてくれる人がいたのか、その記憶も朧げで、本当かどうかわからないのに。
けれど、今日は、扉を開けるなり、頭痛がするような甘ったるい香水の匂いがした。
──帰ってきたんだな。
いつものように、万札が数枚、醤油差しの下に敷かれていた。
こんなに家に戻らないなら、このアパートも解約すればいいのに、と思う。俺一人なら、こんなに大きな部屋はいらない。ワンルームで十分だ。
それでも、こうして毎月金を置いていくのだから、俺に対して、まったく何も思わないわけではないんだろう。
そのおかげで、俺はまた、来月も、高校に行ける。
それは、きっと、有難いこと、なんだろう。
一日、一日。一歩ずつ、足を進めて、歩んでいけば。
いつの日か、それを本当に、心から有難いと思える日が来るんだろう。
匂いがきついので、奥の部屋の窓を開けた。
夕日が落ちかかる部屋。西向きの、最悪の間取りだ。
それでも、こうしてベランダに腰掛けると、窓から入る風が、胸の隙間をすり抜けていくようで、心地いい。
──お前は ひとりだからだ
聞くまいとしても、その声は、蘇る。
何度も、何度も。
──俺はお前が大事だ 親友として
自分の涙が、手のひらを濡らすのを見た。
ああ、泣けるんだな、俺。
それなら、まだ生きて、ここにいるんだろう。
体を痛めつけられることでしか止まらなかった流砂が、止まっている。
胸の奥の、耐え難い痛みのために。
その日、俺は、最初で最期の恋に、失恋した。