Song of the birds

ヨネダコウ先生の「囀る鳥は羽ばたかない」二次創作サイトです。同好の士以外の方は回れ右でお願いします…

真夜中の鳥 1 (影山)

 

 その日はとにかく蒸し暑い日で、朝から親父はひどく怠そうだった。

 

「こういう風がなくて、蒸している日が一番危ないんだ。高温なのに湿度が高くて汗が乾かないから、体の芯に熱がこもる。こまめに水分をとるんだぞ!」

「分かってるよ……今日は球技大会だから、もう昨日から水筒凍らせてるし」

「球技大会か……今日の気候だと、倒れる奴が出るぞ……」

 うちの学校は何故か体育教師の権限が強く、校則はユルいが体力増進の面ではかなりスパルタだ。月曜朝礼の校長の話が長く、40分を過ぎることもザラにあるので、1年のうちはその間立っていられずに倒れる奴が続出する。それでも、3年に上がる頃には、立ったまま足りない睡眠を補うくらいのことは朝飯前になるので、人間鍛えれば何でもやれるようになるものだ。

 そんな学校なので、球技大会で倒れる奴が出そうだからといって中止にするとは到底思えないが、脱水も熱中症もシャレにならない。

「ちゃんと、まめに水分はとるよ。……親父も、体調万全じゃねぇんだから……あんま無理すんなよ」 

 念の為、凍らせた水筒を2つスポーツバッグに突っ込んで、家を出た。

 

 球技大会、と言えば聞こえはいいが、実際のところは、中間テストの採点時間を教職員が確保するために授業がなくなる日、というのが正しい。

 審判はそれぞれソフト部、バスケ部、サッカー部の部員がやることになっていて、教員もいないので、結果は体育の成績に影響しないが、欠席はペナルティになる。

 そんなわけで、腕に覚えのある奴も、イヤイヤ参加の奴も、午前9時には体操着に着替えてそれぞれのチームの集合場所に集まっていた。

 俺は身長があるというだけで、問答無用でバスケに組み込まれた。今日みたいな風のない日は、体育館の中は蒸し風呂のような暑さになる。それだというのに、長袖長ズボンの体操着で現れた人影に、クラスの全員が一瞬動きを止めた。

「……矢代……オマエそれ暑くねぇの?!」

 先に川西がそう声をかけていなかったら、俺が聞いていただろう。この蒸し暑さだ。絶対途中でへばるに決まっている。
「ん、たぶんへーき? いつもコレだし。俺基礎体温めっちゃ低いし」

「変温動物かよ……」

「そんな感じ? 冬とか、ひなたぼっこしてからじゃないと動けない」

「マジか。そういやお前が汗かいてるのとか、見たことないわ」

 基礎体温が低くて汗がうまくかけないなら、むしろ今日みたいな日は、体温調節が効かなくて危険なんじゃないか?

 そう思ったが、かといって見学は欠席扱いになるし、本人が大丈夫だと言ってるものを食い下がるわけにもいかないので放っておいた。

 試合はその場に集まった全員で、経験や身長を加味しながら、適当にチーム分けして進める。全員が適宜交代しながら参加するスタイルだ。矢代は敵チームのPG(ポイントガード)だった。ポイントガードといえばコート上の司令塔だが、経験を買われたというよりは、たまたま他の面子がその他のポジションに適していただけ、に見える。
 矢代は結構すばしこくて、何度か、こちらの体の隙間をギリギリ狙うような鋭いパスを通された。なるほど、このパスがあるからPGか、と、油断した自分に腹を立てていると、いきなり矢代が3ポイントシュートを決めようとして一度持ち上げたボールを下ろし、チームメイトにパスを回した。

 今のタイミングは……そのまま打った方が得点に結びつく可能性が高かったはずだ。

 頭上に掲げた左手にボールの重さが乗った瞬間、一瞬、矢代は眉をしかめた。おそらく、また手首を痛めているのだろう。打てないと判断して、味方にボールを回した。そんな風に見えた。

「リバウンド!」

 点数はこちらが負けている。前半の残り時間はあと1分。このへんで点差を詰めておかないと、後半がしんどい。

 体格で押し込んでリバウンドをとったが、味方に出したパスは敵にスティールされた。その一瞬で矢代が内側に入り込んできて、押し戻そうとした時に事件は起きた。
 矢代の体が、一瞬揺らいだ。危ない、と咄嗟に足を止めたら、汗で滑って逆にそのまま体当たりしてしまったのだ。
 ひょろっと縦に長い体が斜めに傾いで、その側頭部を受け損ねた鋭いパスが直撃した。咄嗟に倒れ込んだ体を支えたが、開いたままの両目は虚空を見つめていて、焦点が合っていなかった。

 これは、ひょっとすると、まずいかもしれない。

「矢代、矢代! 聞こえるか?!  聞こえたら、返事しなくてもいい、できる合図を返せ!」

 頭を打ったら、絶対に揺すぶってはいけない。子供の頃からそう親父に言い聞かされているので、とにかく声をかけ続ける。

 もしかしたら、頚椎をやられているかもしれない、と思った。その瞬間、全身の血が一瞬沸騰して、その後に全て流れ出てしまうような、ぞっとするような感覚が背筋を襲った。

「矢代! ……誰か、先生を呼んできてくれ! 矢代の反応がない!」
 こういうときは、何をしたらいいのか。まず、床に寝かせて、絶対安静だ。……それから、呼吸を確認して……もし息が詰まっていたら気道を確保する。でも、もし頚椎を痛めていたら? 仰向かせて大丈夫なのか?

 そこまで考えるのに、0.5秒もかかっていなかったと思う。床に寝かせようと体を支え直したとき、急に腕の中の体に力が戻った。

「──いい。……聞こえてる」
 存外にはっきりとした声が、その血色の良すぎる唇の隙間から溢れて、視線が緩慢に動き、こちらを見上げて焦点を結んだ。

 少なくとも、意識を取り戻した。そう思った途端、全身の血流が回復して、どっと汗が溢れた。

「すまん、矢代。足が滑ってお前に体当たりしちまった。頭、大丈夫か」

「──平気。……どっちかっつーと、暑さにやられた。──ちょっと休めば治る」
 直前に体が傾いだのは、そのせいか。こんな日に長袖なんか着てくるからだ。ほっとした勢いでそう咎めそうになったが、こちらの肩に手をかけて起き上がった矢代の襟の隙間から一瞬見えたものがあまりにも衝撃的で、そんな愚痴も吹っ飛んだ。

 

 あれは……根性焼きの痕じゃないのか?
 それも、一つや二つじゃない。

 

「川西、もう大丈夫だから、先生呼ばなくていいよ。試合は、悪いけど誰か代わって」

 矢代は自力で立ってコートの外に出たが、若干足元がふらついていた。勿論、大丈夫なわけがない。頭の方が大したことなくとも、今はむしろ熱中症と脱水症が心配だ。

「保健室。付き添うから、少し横になって休め」

「大丈夫だって。壁に寄りかかってしばらく休めば──」

 

 頭の中には、先ほど見えた映像がまだ居座っていた。
 根性焼きだったとして、何故そんなものが体にあるのか?
 去年村岡が危惧したとおり、イジメなのか?
 こんな日にも長袖を着ているのは、もしかして、体の傷を隠そうとしている?

 

「お前、30秒意識がなかった。ボールの直撃受ける前から足元ふらついてたしな。たぶん熱中症になりかかってる。とにかく体冷やして、水分とって休め。濵田、俺も抜けるから、悪いがあとを頼む」

 

 

 

 

 保健室までの道のり、矢代に肩を貸そうとしたが、矢代は最初笑ってとりあわなかった。
 ……やはり、イジメ、には見えない。
 勿論、こいつの何を知っているわけでもないが、もしもイジメを受けていてこの感じなら、こいつの心はとうにぶっ壊れているのだろう。
 どこか人間離れした雰囲気と、もしかしたら既に心が壊れているのかも、という想像に、ぞっとした。
 だが、足元が怪しい。
 転んでもう一度頭打ってバカになりたいのか、と言ってやったら、漸く諦めた。

 男子の体は、高校時代にかなり骨格も肉付きも変わるが、矢代の腕はまだ華奢で、筋肉のつき方も薄かった。
 肩に右腕をかけさせて引っ張ると、首筋に当たる腕が矢鱈熱いのがわかる。
 ……やっぱ熱中症になりかけてんじゃねえか。
 とにかく体温を下げる必要がある。
 持参した水筒が役に立った。1つ目は自分が飲んでしまって半分以上が空だったが、2本目はまだ満タンで、ちょうどいい具合に溶けていた。
 保健室は教官が不在だったが、保険委員なのでどこに何があるかは大体わかっている。
 冷蔵庫の横に湯呑みが伏せてあったので、それに冷えたポカリを注いで押し付けた。

「あ───、生き返る…………」
 矢代はそれを一気に飲み干して、嬉しそうに仰向いて笑った。
 折しも、曇っていた空に日が差して、ガラス窓の向こうの明るい光に、そのどこか繊細な感じがする輪郭が縁取られていた。
 ……なにか、見てはいけないものを見たような気がしたが、気のせいだろう。
「そのポカリ、全部飲んでいいから。とにかく、少し休め。俺はしばらくはここにいるから、頭痛がするとか、気分が悪いとか、とにかく何かあったら呼べ」
 汗をかいているボトルをタオルで包んで矢代の手に押し付け、カーテンをひいて、その姿を無理矢理視界の外に追い遣った。

 

 

 日本人離れした白すぎる肌に、醜く引き攣れた薄桃色の皮膚が、淡い陰影を刻んでいた。
 一体、どんな事情があれば、あんな場所にあんな痕が出来るのか。
 そんなことを思う前に、脊髄を、甘い痺れが駆け上がった。
 誰も知らない、誰にも言えない。
 一生、隠し通さねばならない、おそらく死ぬまで無かったことにもならない、俺だけの秘密だ。

 

 

 カーテンの向こうが随分と静かなのが気になって、そっと隙間から覗くと、矢代は水筒を抱えたまま寝入っていた。
 冷たくて気持ちがいいのかもしれないが、氷の塊を腹の上に抱えて寝るのは良くない。
 そっと取り上げても矢代は起きることなく、ボトルを抱えていた腕がぱたりとシーツの上に落ちた。

 その袖口の影に、赤黒い何かが見えた。

 
 その時の俺が何を考えていたのか、今でもよくわからない。
 ただ、結果的には、脈をみる、という行動に繋がったそれが、決してクラスメイトを助けたいだとか、医者の息子として怪我人を放っておけない、だとか、そんな立派な理由ではなかったことだけは確かだ。

 頭の中では、これはやってはいけないことだ、と理解していた。どういう理由だか知らないが、矢代は自分の体の傷を隠したがっていて、そのためにこんなクソ暑い日にも長袖を脱がないのだということは、もはや明白だった。

 

 たくし上げた袖の下には、緊縛痕や打撲痕、薄くナイフで切られたような痕まであった。
 これは……おそらく虐めではなく、家庭内暴力だ。
 顔や手など、見える場所にはほとんど傷がないのに、服の下にこれほどの傷があるというのは、加害者が暴力の痕を隠そうとしているからだ。
 そして、矢代本人も、それを望んでいる。……その動機が、恐怖だったとしても。

 

 

 ただの学生、しかも友人でもない俺に、口を挟む権利はない。

 ましてや、当人の許可も得ずに勝手に体を見た人間に、何が出来る?

 

 

 動脈の位置を探って、脈を測ると、まだ少し速かったがかなり落ち着いていた。
 このまま、しばらく安静にしていれば、大事には至らないだろう。
 元通りに袖を直してやって、冷え過ぎないように、腹にだけ薄いタオルケットをかけてやった。

 

 

 ……リストカットの痕は、なかったな。

 

 

 そんなことを思って、そのことにほっとしている自分に、苛ついた。

 

 

 

 

 

 

 家に帰ってからも、見てしまった映像が脳裏から消えず、晩飯の間もぼうっとしていたのを見抜かれたんだろう。
 食後に親父に声をかけられて、縁側に呼び出された。

「なんだ。ずっと浮かない顔してるが、どうした」

 親父は、元気な頃は決して家庭を顧みるタイプとは言い難かったが、自分の病気が分かってからは、何か気づいたことがあるとまめに声をかけてくるようになった。
 俺の方も中坊のような反抗期からは既に抜けて久しいので、そういうときは逆らわずに従うようにしている。
 こんな時間も、あとどれだけ続くかわからない。

 特に今日は、どうしても親父に相談したいことがあった。

 

 

「……親父はさ、明らかに家庭内暴力受けてる患者が来ても、絶対に何も言わないよな。……なんでだ?」

 

 

 親父は、5秒ほどの間、じっと俺を見てから、小さく息をつき、「座れ」と自分の横の床を視線で指し示した。



「……丁度良かった。俺も、お前に、話しておくことがある」