Song of the birds

ヨネダコウ先生の「囀る鳥は羽ばたかない」二次創作サイトです。同好の士以外の方は回れ右でお願いします…

真夜中の鳥 0 (影山)

 

 誰もいない教室で、そいつは、ただ、ぼんやりと、窓の外を眺めていた。

 開け放たれた窓の外で、雁の群れが、西の空に向かって羽ばたいていた。

 

 中学は中高一貫の私立男子校に通っていた俺が、親父の闘病をきっかけに高校は公立校を受験すると言ったとき、親父とお袋は学費は別に分けてあるから、と大反対した。
 そうはいっても、高い抗癌剤を使うなら金はいくらあっても困るものではないし、本音を言えば、男女共学の生活にも少し憧れて、電車で15分ほどの距離にある公立進学校を受験したら受かってしまった。
 中学の担任は、いくら進学校とはいえ、公立は教師の当たり外れがあるし、医学部を目指すなら転校しない方がいい、と、合格通知を受け取った後にも釘を刺してきたが、入学式初日、満開の桜の下で華やかに笑う女子を見たときには、やはり共学はいいな、と本気で思った。
 思ったはず、なのに、だ。

 クラスで一番の美形が、男って、一体どういうことだ?!

 

 髪は亜麻色に近い薄茶色。うちの学校の校則は基本ゆるいが(それもここを選んだ理由のひとつだ)、髪染めは禁止だ。でも、誰もそのことを揶揄する者はいない。
 眉も同じ色、瞳も灰色味を帯びた琥珀褐とくれば、染めているわけではないことは一目瞭然だ。しかも、一重瞼のくせに、どこか日本人離れした顔の造形。
 ……ハーフ? いや、クォーターか?
 クラスの人間も、遠巻きにしてそいつを眺めている。本人は、そんな空気もまったく我関せずといった体で、ぼんやりと頬杖をついて窓際の席から外を眺めている。それがとてつもなく絵になる。まるで雑誌のモデルみたいだ、と思った。
 ……まあ、この外見じゃ、他人からジロジロ見られるのなんて、慣れてるんだろう。
 不躾な視線を投げていたことに気づいて、そんな自分に腹が立った。
 慣れてるからって、珍しいものを見るみたいな目で見られるのは、きっと面白くないに違いない。

 女子が数人、ひそひそと声をかけあってそいつに近づいていった。
「ねえ、矢代くんってさ、ハーフ? いいな〜この髪の色カッコイイ!」
「中学はどこだったの? 同中の子いないんだ?」
 すっかり女子の人気者だ。そりゃそうだろう。あの容姿で、モテないわけがない。
 と、そのとき、そいつが少し身じろぎした。その、反射的に距離をとろうとしたかのような体の動きが、なぜか目に焼き付いた。
「ハーフじゃなくてクオーター。母親がロシア人とのハーフだから」
 少しハスキーな声が、二つ目の質問を無視してそう答えるのを聞いた。熱のない声だった。
「えー! かっこいい!!」
 女子というのは、あの高い声をどこから出しているんだろう。
 思わず眉を顰めたとき、そいつの目が、ふと俺を見た。

 

 距離があったから、そんなに細部まで見えたはずがない。

 それでも、何故か、硝子のような瞳だ、と思った。

 ……こんなにも、無感動で綺麗な瞳を、俺は生まれてからただの一度も見たことがない、と。

 

 

 

 絶対女にモテるだろう、という予想だけは当たったものの、それ以外の全てがどこかちぐはぐな印象に気づくまでに、2ヶ月ほど要した。

 うちの学校は文武両道がモットーなので、部活は全員強制参加だ。しかしまあ、諸所の理由でそういう活動をしたくない人間もいるわけで、一応学校側も逃げ道は用意している。

 この学校の場合、映像研究会がそれに相当するらしかった。

 活動は、不定期に開催される映像鑑賞会だけ。それも自由参加だ。
 その映像も流行りの映画などではなく、顧問の趣味がバリバリに入った海外のインディペンデント映画だったりするから、部員数だけは立派でも、ほとんどがサボリで出てこない。
 生徒からは、映研と呼ばれることはほぼなく、「帰宅部」の別名で通っていた。

 クラスメイトにも自分からは殆ど話しかけない矢代は、最初の頃こそ演劇部やら写真部やらに勧誘を受けていたが、それらを全てスルーして映研に入部した。

 空手部に入部した俺は、雨の日の体力増進メニューで視聴覚室の横を通ることが度々あって、そんな時に、窓際の席に座ってぼんやりと画面を眺める矢代の姿をよく見かけた。

 ただ、空を鳥が渡っていく姿を映し続けている、白黒の映像。
 それを、ぼんやりと頬杖をついて、あの硝子のような瞳で見つめ続けている横顔が、なぜか強く印象に残った。


 空気のような存在、といえば、クラスに一人や二人はいるものだが、矢代はそれとは似て非なる存在だった。

 成績は常に上位に名を連ねている。体育は見学が多いから体が弱いのかと思いきや、たまに球技でチームを組んだりすると、運動神経は決して悪くはない。夏の水泳は見事全部見学していたから、カナヅチではあるのかもしれないが。

 顔がよくて、成績も運動神経もよければ、普通はクラスの中心になるだろう。にもかかわらず、矢代には不思議と存在感らしきものがなかった。

 夏が終わる頃には、年度の初めよりは喋るようになっていたが、それでも、気づけば、いつの間にかその会話の輪から外れて、ぼんやり外を見ていたりもする。

 くだらない会話、と思っているのを隠しもしないその表情に、むっとする奴もいただろう。それでも、なぜかイジメの対象にはならなかった。

 いや、クラスの外や見えないところでは、色々あったのかもしれないが。

 何度か、顔に殴られた痕をつけて登校してきたことがあった。ただ、それでも、本人が凹んでいるようには全く見えない。むしろ、どこか機嫌が良さそうだ。

 手を出した奴も、これでは肩透かしを食らっただろう、と思った。

 

 水のような、風のような。

 矢代がぼうっと頬杖をついて外を眺めている姿は、人というよりは、そういう自然現象のように思えた。

 

 

 

 

 一年の間で、まともに喋ったのは数度だけだった。

 もうすぐ今年度も終わる、という2月になって、担任の村岡は、どういうわけか、矢代のことについて俺に声をかけてきた。

「矢代のことなんだが、……なにか、もしも元気がなさそうだったら気遣ってやってくれないか?」

「……なんで、俺に」

「まあ……お前は家が開業医だし、そういうのはわりと目端がきくだろう?」

 だとしても、なんで今頃なんだ。もう1年目が終わるじゃないか。

 怪しさしか感じられない要請を受けて、つい、こちらも身構えた。

「……あいつ、何か問題抱えてんですか? ……イジメ、とか」

 だいたい、学校という組織が重い腰を上げる時には、事態は既に取り返しのつかない泥沼に陥っていることが多い。

 俺の勘では、イジメ、ではないような気がしたが、気づいた現象そのものにはそれに近いモノを感じていたので、一応万が一を考えてそう返事をしてみた。

 村岡は、ひどく真剣な眼差しで、こちらに覆いかぶさるような形で声をひそめた。

「思い当たる節があるのか?」

「……いや、そういうわけじゃ……。ただ、妙な感じの怪我が多いな、と思って」

 微妙に片足をひきずっていたりとか。腕の可動域が狭くなっていたりとか。
 クラスメイトの多くは気づかないだろうが、俺の親父は内科医といいつつホームドクターのようなこともしていたから、俺は病院でたまにそういう患者を見ていた。

 運動部なら普通にあり得るレベルの故障だが、矢代はほぼ帰宅部だ。

 勿論、そうやって空いた時間を使ってスポーツクラブにでも通っているのかもしれないし、なにより本人が虐められて怖がっているようには見えないので、あまり考えないようにしていたのだが。

 村岡は、ひとつ、大きな溜息をついた。

「……やっぱり、お前もそう思うか……」

「先生が直接聞けばいいじゃないですか。俺、別にあいつの友達ってわけでもないですし」

「何度かカマはかけてみたんだが、笑い飛ばされるばかりでな……。これは絶対にオフレコにしておいて欲しいんだが、こないだの1回目の進路希望調査で、下の方に、悩みを相談したい相手の名前書く欄があっただろ。あれ、矢代はお前の名前書いたんだよ。3つあった空欄のうち、一つだけな」

 正直言って、完全に寝耳に水の話だった。俺は、クラスの他の人間よりも、よっぽど矢代とは話していない。むしろ、避けられている、と思っていたからだ。

「……そういう個人情報、生徒に漏らすのはどうかと思いますが」

「お前がそういう性格だから、特別に喋ってんだよ。お前はあのアンケート3つとも空欄だったから、片想いの三角関係になる心配もないしな……」

「何ですかソレ気色悪い」

 

 口ではそう言ったが、正直、妙な気分だった。

 これは、もしかして、嬉しい、という感情なんだろうか?

 あの、水みたいな、風みたいな、透き通った蜉蝣みたいに、殆ど人間臭さを感じさせない矢代が、俺の名前を書いた。

 たんに、面倒くさくて、今現在矢代の前の席に座っている俺の名前を書きつけただけかも知れない。

 それでも、多分避けられている、と思っていた相手にとって、自分はなにかしらの意味を持つ存在だったのだ、という感覚は、どことなく甘酸っぱい感傷を生んだ。

 

 

 

 それからしばらくして、理科の実験で矢代と組むことになった。

 矢代は、どうも左手首を痛めている様子だった。蓋の固いビンが開けられない。開けてやったら、「流石空手部!」と茶化された。

 ……やっぱり、イジメ、には見えないんだが……。

 でも、こんなに故障が多いのは、やはり何か問題を抱えているのかもしれない。

「……お前さ、進路どうすんの?」

 唐突にそんなことを聞いてしまってから、何聞いてんだ俺、と猛烈に焦った。

 友人でもないのに、そんな個人情報、簡単に聞いていいわけがないだろう。

 村岡が「進路希望調査のアンケートで」とか余計なことを言ったからだ。クソ!

 矢代は、一瞬、ぽかんとした表情で俺を見上げていたが、すぐにその表情を消して、薄笑いを口元に浮かべた。

「お前は? どうすんの?」

 聞かれて当然だ。とはいえ、俺は最初からどの道に進むか決めていたから、別に迷うことはなかった。

「俺は理系。入学した時から決めてた。本当は理系特進クラスに行きたかったんだが、そっちは推薦で落ちて」

「ヘェ………お前、成績悪くないじゃん。特進ってそんな難しいの?」

「……試験当日の朝に食ったカツ丼で腹壊してな……」

「なにソレ、マジウケルw」

 矢代は、一体俺は何故こいつに水だの風だのの印象を抱いていたのか、と疑問に思うほど、盛大に腹を抱えて笑いこけた。

 整いすぎのきらいのある顔が、完全に崩壊している。

 試験落ちた、ってハナシに、普通、そこまでガチで笑うか?!

「いいんじゃね? リケイ。お前、文系ってガラじゃねえし」

「なんでだよ。別に文系科目も不得意じゃねえぞ」

「お前現代文弱いだろ。30点〜♪」

「……はぁ?! なんで知ってんだよ!!」

「こないだ、後ろから見えた❤️」

「人の答案覗くな!」

「ワリィワリィ! ワビに現代文教えてやろっか?」

「いらんわ!」

 

 この間の中間試験は、なぜか読みを悉くハズして、惨々たる成績だったのだが、もともと平均点も50点の難問だったのだ。だが、その試験でも、矢代はクラスの上位成績者の中に名前を連ねていた。

 ガリ勉タイプにはまったく見えないのだが、家で相当勉強しているのかもしれない。

 だとしたら、尚更、何故こんなに怪我が多いのかがわからないが。

「……で、お前はどうなんだよ」

 ここまで茶化されたら、なんだか遠慮する必要も感じなくなって、単刀直入にそう聞いてみた。

 この学校では、普通科の学生は2年進級時に文系、文理系、理系に分かれて、卒業まで違うカリキュラムを履修することになる。1〜2組が文系、3〜5組が文理系、6〜7組が理系で、それぞれ私立大、国公立大の理系以外、国公立大の理系学部への進学を目指す内容になっている。

 正直、俺たちの年齢で、将来何を仕事にして食っていくかを既に決めている人間は決して多くはなく、俺みたいに最初から医学部狙いの人間はかなり少数派だ。

 それでも、今週中には、自分がどっちの方向に進むのかを決めて、進路希望用紙を提出しなくてはならない。

 それは、まだ16歳の俺たちにとっては、普通は結構なプレッシャー……のはずなのだが。

 

 矢代は、まるで他人事のように、窓の外を見上げて笑った。

「そーだなぁ……決めるの面倒くせぇなぁ……もう、サイコロで決めるか…………」

 

 

 

 

 放課後、理科の実験室にメガネケースを忘れたことに気づいて実験室に戻ると、そこに矢代がいた。

 誰もいない教室の、一番後ろの机の上に腰を下ろして、ただ、ぼんやりと、窓の外を眺めていた。

 開け放たれた窓の外に、雁の群れが、西の空に向かって羽ばたいてゆくのが見えた。

 俺は暫く、声を掛けることもできなくて、その場に立ちすくんだ。

 

 ……断じて言うが、俺は、付き合うなら絶対女子がいいし、男を綺麗だと思ったこともない。

 それでも、その光景は、その俺の常識を根底から覆しかねないほど、強烈な印象を生んだ。

 

 

 今日の昼間には、ただのクソ生意気な同級生、と、確かに思ったのだ。

 俺が矢代に密かに感じていた、どこか人間離れした印象は、あの口の悪さと、ぶっ壊れたようなバカ笑いで完全に砕け散った、と思った。

 それでも、こうして黙って外を眺めている後ろ姿は、まるで、今にも夕日の空に融けてしまいそうに見える。

 やはりこいつは、空気で出来ているんじゃないか、とつい思ってしまう。
 落ちかけた夕方の太陽が、その黒い制服の向こうに隠されていて、黒々とした輪郭から光の筋が幾重にも溢れていた。

 大きな、空気の網目で出来た羽を広げた、季節外れの蜻蛉みたいに。


 ……脆すぎて飛べない羽を持った蜻蛉は、行くあてもなく、茜色の空を見上げることしか出来ない。


 柄にもなく、そんなことを思った。

 

 

 

 扉を開けた音で、俺が部屋に入ってきたことには気づいていたんだろう。
 矢代が、ゆっくりとこちらを振り返った。

「忘れモノ。コレだろ?」

 その手の中に、俺のメガネケースが握られていた。

「……ああ。ありがとな」

 忘れたのは引き出しの中だったはずなのに、どうしてそれに矢代が気づいたのか、よくわからない。

 そもそも、こいつは、何故、放課後に一人でこんな場所に居たんだろう。

「……何してたんだ?」

「うん? ……何となく。」

「……今日は、早く家に帰らなくてよかったのか?」

「……なんで?」

「……だって、お前、早く家に返って勉強するために、映研入ったんだろ?」

「…………」

 俺の微妙な反応を、矢代は半ば面白がって見ていたのかも知れない。

 不意に、昼間の快活さを取り戻して、矢代は笑った。

「ウッソ! 俺も、忘れ物。……じゃあな、カゲヤマ、……また明日!」

 

 

 忘れ物、というのは、多分、嘘だ。

 何故かそう思って、俺は、渡されたメガネケースを握りしめたまま、放課後の理科実験室に呆然と立ち尽くしていた。

 

 

 

 サイコロの悪戯なのか、なんなのか。

 矢代が理系に進み、残り2年間を同じクラスのクラスメイトとして過ごすことになったのを知るのは、この日から2ヶ月後のことになる。

 

 

 

真夜中の鳥 1 (影山)に続く

 

 

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この話は、「真夜中の鳥 0(矢代)」から始まるシリーズと対になっています。