Song of the birds

ヨネダコウ先生の「囀る鳥は羽ばたかない」二次創作サイトです。同好の士以外の方は回れ右でお願いします…

真夜中の鳥 4 (影山)


 時折、かなうことなら時間を巻き戻したい、と、強く願う。
 矢代と二人だけの、あの奇妙な逢瀬が、あんな形で始まらなかったなら。
 俺がケロイドフェチでなく、きちんとあいつの傷に向かい合えていたら。
 ──もしかしたら、未来は変わっていたのかもしれない、と。


 俺が保険当番の間中、矢代は放課後にふらりとやってきては、ただ黙って制服のシャツのボタンを外すことを続けた。
 あの、真夏でさえ、決して半袖は着ない、袖も捲らない、ボタンも第一ボタンまできっちり止めて外さない矢代が、だ。
 ただ言葉もなく、一方が肌を曝し、一方がそれに触れる、という関係は、どこか、母親と乳幼児のそれに似ている。
 回を重ねても、それ以上にもそれ以下にも発展しない。ただ、ルーティンとして繰り返されるだけだ。
 矢代も下は脱ごうとしなかったし、俺も、それ以上は見るつもりもなかった。
 もしかしたら、ズボンの下には、一層目を背けたくなるような傷があったのかもしれない。
 それでも、あいつがあの軽薄な笑顔の裏に抱え込んでいる怪我も、秘密も、詮索し理解することを、俺はもう諦めていた。
 自分には、その資格がない、と、わかっていた。


 あの最初の日の夜に、唐突に反応してしまった下半身は、それからも、時折不都合なことになりかけた。
 まぁ、健康な高校生男子だ。触って触られて、皮膚の感覚を刺激すれば、そういうこともある。
 俺だけでなく、矢代の方も、たまに その辺を制御できずに苦労しているようだった。
 この感情が、どこへ向かうのか。
 多分、二人とも、その感情の名前も、そもそも名前をつけるようなものなのかも、知らなかった。
 クラスに戻れば、むしろ、お互いに、他のクラスメイトよりも言葉は交わさない。それでも、ちらちらと、お互いを遠くから眺める機会は増えていたのじゃないか、と思う。
 この頃、俺の視界には、矢代の周りにだけ光が差していた。
 クラスの女子の中には、たしかに可愛い顔もいる。甘いリンスや制汗剤の残り香に、どきっとすることもある。
 それでも、一番綺麗なのは誰か、という問いには、どうしても、たった一人の名前しか浮かばなかった。

 そこに居るだけで性フェロモンを撒き散らす十七歳が三十人以上密集する中で、唯一、なんの匂いもしない。
 空気みたいな、風みたいな。
 その現象が、ただただ、綺麗に見えた。

 

 


 そんな感傷を抱いていても、やっていることは、間違いなく不健全の範疇に入ることだった。
 それでも、その関係からなにひとつ進展しなかったのは、わかっていたからだ。
 そちらに手を伸ばせば、この関係が終わる。……だから、考えない。
 矢代は相変わらず、ただ傷口を弄る・弄らせる、という行為になんの疑問も抱いていないようで、俺が夢中になってその疵痕を辿る姿を、軽蔑するふうでもなく、愉しそうに眺め下ろしていた。
 どんなに平静を装っても、触れば、興奮する。全身をつめたい血が駆け巡り、真冬のさなか、太陽を浴びた爬虫類みたいに、全ての感覚がクリアになる。
 もしクスリをやったら、こんな気分なのではないだろうか、と、思う。

 この頃、親父の体調は目に見えて悪化した。医者は入院を勧めたが、親父は頑として首を縦に振らなかった。
 入院したら、もう出てこられない、と知っていたのだろう。
 一時間診療したら二時間以上ベッドに横になるような有様で、病院は殆ど開店休業状態だったが、親父は閉院の看板も掲げなかった。
 あの母娘が来るかもしれない、と、思っていたのかもしれない。
 覚悟していたとはいえ、残された時間が少ないことに気を塞がれて、俺は授業に身が入らない日々が続いていた。
 ただ、矢代の傷を弄っているときだけは、そのことを忘れる。
 いつまでも慣れない興奮と、あの皮膚の感覚が何十倍にも増す感じがやめられなくて、俺は、何も言わない矢代の好意に甘え続けた。

 ──そう、あれは、好意だったのだ。
 それも、俺が全く想像もしていなかった種類の。

 


「──俺、バイなんだ」

 ぷくり、と膨れ上がったピンク色の、つやつやとした火傷痕を指先で抉るのに没頭していた俺は、その時、唐突に矢代が呟いたその言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
 バイ。
 つまり、セックスの相手が男でも構わない、ということだ。
 そこに思考が至るまでに数秒かかった。そのせいで、矢代は、俺がその言葉を知らなかった、と思ったようだった。

「あっ、バイってわかんねえ?」
「……いや……そうか」

 つまり、矢代が、俺と二人きりになって、こんなふうに肌を触らせてきた、というのは、男に触られることに対して、生理的な抵抗がなかったからだ。
 そうでなければ、こんなおかしな関係が、こんなにも長く続くわけがない。

 矢代は、相変わらず、週末が過ぎるごとに新しい傷を増やしていて、それを苦にしている様子も見えなかった。
 むしろ、俺がしつこく触るので、わざと傷を増やしてきているのではないか、と思うほどだった。
 ……毎夜、毎朝、それまでの出来事を全て忘れているのでなければ、到底こんなふうには振る舞えないだろう。
 馬鹿げた妄想だが、そうとしか思えないほど、俺に傷を触らせる矢代は楽しそうだった。
 自らの理解が及ばないからこそ、理由もなく惹かれる。
 そんな矢代が、自分のセクシュアリティについて言及したことに、俺は軽い失望を覚えた。

 (こいつも、誰かとセックスしたりするのか)

 ものすごく勝手な感傷であることはわかっている。その体を弄り倒して、時にはエレクトさせかかったりしているのは俺の手だ。
 それでも、俺の方には、そういう気はなかった。矢代は決して貧弱ではなかったが、力をこめて握れば粉々に砕けてしまいそうで、その体を組み敷いてどうこうするなど微塵も想像出来かったし、自分が組み敷かれるのも御免だった。
 矢代の方も、それを望んでいるわけではないのだろう。
 バイだというなら、その先へ進むこともできたはずなのに、そういう素振りは、あいつの振る舞いからは見えなかった。

 では、なぜ、今、それを……

「それだけじゃない」

 いきなり、耳を強い力で引っ張られて、その強い痛みに思考が強制終了した。その隙に、奔流のような矢代の告白が叩きつけられた。

「小学校3年から中学まで母親の再婚相手にセックスを強要されてからというもの、セックスのことが頭から離れない」

まるで人を挑発するようで、それでいて内緒話のように突如外耳孔に叩き込まれた言葉は、俺が想像していた何よりもはるかに突飛で、常軌を逸していた。

 ……小学校三年から?
 頭から離れない?
 ……セックスのことが?

「どうだっ」

 本気なのか、からかわれているのか。
 ……冗談にしては、たちが悪すぎる。

 その姿は、本気で自分の身に降りかかった凶事について、とても真剣に打ち明けているようには見えなかった。
 俺の脳味噌は、その言葉の中身の深刻さと、矢代の表情から受ける印象の大きすぎる齟齬を処理し切れずに、なすすべもなく硬直した。

 じゃあ、そもそも、この身体中の傷は一体なんなんだ?
 中学まで、ということは、その先は、義父からの性虐待が、性行為を伴わない暴力に変わった、ということなのか?
 それとも、この傷と、バイであるという告白の間には、なんの繋がりもないのか?

「……そうか」

 

 そのとき、なぜ自分が、その言葉を呟いたのか、よくわからない。
 いや、そもそも、自分で何かを口にした、という意識はなかった。
 ただ、どうしていいかわからなくて、矢代の顔から視線を外した。
 気がついたら、口が勝手にそう言葉を発していて、その瞬間、矢代が小さく息をのんだのがわかった。
 ……いや、それも違う。音は聞こえなかった。ただ、気配が、息をのんだのを感じただけだ。
 空手なんてものをやっているお陰で、そういう気の流れみたいなものが、俺にはわかる。
 俺の言葉の直後に、あいつの内部で、なにかの感情がフラッシュのように瞬き、──そして、弱々しく消えていったのを感じた。
 その瞬間、全身の毛穴が震えて開くような、冷たい衝撃が全身を駆け抜けた。


 ……あれは、命の光が消えた瞬間だ。
 数時間しか生きられない蜉蝣を、俺は、この手で叩き落として、殺したのだ。


 俺は、矢代の顔を見られなかった。
 無理にでも、見ておけば、最後の足掻きで、なにか違う行動を起こせたのかもしれない。
 あいつの、未来を変えることのできる、何か。
 それでも、ただ顔を上げるのが怖くて、俺はそれ以上何も言えないまま、視聴覚室を出ていくあいつの後ろ姿を見送った。

 


 
 『セックスのことが 頭から 離れない』

 家に帰って、食事もそこそこに自室に篭って、その一言について考えつづけた。
 あれは、矢代の精一杯の、救いを求める声であり、理解と共感を求める祈りでもあり、正しい相手に向ければ、報われて然るべき願いだったのだろう。
 何故それを、それが可能な相手に向けなかったのか──俺はアイツではないから、わからない。
 ただ、しばらくの間、天井に走る格子状の竿縁を見つめていて、唐突に気づいた。
 ……あの酷い緊縛痕は、そういうプレイの結果なのじゃないか?
 なぜならば、矢代の体には、たしかにそういう目で見れば、愛咬の痕とも見える傷も多く刻まれていたからだ。

 セックスの相手を縛り、痛めつけて快楽を得る人間がいることを、俺は知っている。
 それを喜ぶ人間は実際にはいない、と思ってきたが、知識として、痛めつけられると性的興奮を感じる人間がいることも知っている。
 もしそうなら──
 あいつが、セックスの相手に傷つけられることを、自ら望んでいるのだとしたら。

 (俺は、あいつに、火傷の傷を増やせ、と望むだろうか)

 その想像は、ぞっとするほど自然に俺の思考に滑り込んできて、そのまま体に吸収されてしまったように感じた。


 ──もしも、あいつが。
 俺になにがしかの感情を抱いているのだとしても、決して、応えてはならない。


 矢代に向かう感情は、あまりにも複雑で、整理されていなくて、俺には何がなんだかわからなかった。
 ただ、なにひとつ分からない中でも、たったひとつだけ、わかっていることがあった。
 ……あいつは、家族の愛情を知らない。
 そんなあいつが、家族以外の誰かに、もし愛情を乞うことがあったなら。
 その愛情は、無私の愛でなくてはならない。
 ……その相手から向けられる執着が、異常なフェティシズムであって良いはずがない。


 握り込んだ手のひらに、強く爪の形が刻まれているのを確認した直後、お袋の悲鳴が、夜更けの静寂を打ち破った。


「莞爾! 莞爾! お父さんが……お父さんが!!」