真夜中の鳥 6 (矢代)
六
「こないだの全国統一模試の結果を渡すぞ!」
「エエエ~~ッ!! いらねえっすよ! せっかくの連休が!!」
「連休だから渡すんだバカども。休みの間に、間違ったところはちゃんと復習しとけよ!」
また、暑くても我慢の夏がやってきた。
影山は、もう絆創膏を渡してはこない。コッチも、例の事件以来、目をつけられるのは困るので、縛る場所をもっと見えづらい位置に変えるようにした。
手を後ろに回して、手首より上の腕の部分をぐるぐる巻きに縛る。やってみたら、コッチの方が、より拘束感が強くて、悪くない。ただし、肩は更に頻繁に外れるようになったが。
「矢代、よく頑張ったな。お前、今回3科目で全国100番以内に入ってるぞ」
答案用紙の封筒を受け取る時、担任の島田にそう言われた。
「へー! まあ、今回、マークシートだし、得意な問題多かったからじゃないですかね? マグレですよ」
我ながら、模範解答だ、と思う。何しろ、下手なこと言うと、本気で呼び出しを食らって大学案内パンフレットに埋もれる羽目になるからだ。
島田は、眉を下げて俺を見た。
「……お前……本当に、進学しないのか? お前なら頑張れば推薦は余裕だし、授業料免除や企業奨学金とかも……」
「しません。俺、早く働いて金稼ぎたいんで」
全部言い終わる前に、どうも、と頭を下げて、封筒を受け取った。まあ、島田を黙らせるのはそんなに難しくない。
問題は、コイツだ。
「……矢代……お前、ホント、むかつく奴だな! 進学する気がないなら順番譲れ!」
「へっへー! 影山クンは、何番だったんだよ?」
「あっコラ、勝手に人の成績見るな!」
「あれ? 第一志望C判定じゃん。ヤバくね?」
「うるせえ!」
影山は成績表を取り上げてから、ぼそりと呟いた。
「なあ、お前、明日の土曜、時間あるか?」
「うーん、どうしよっかなー?」
「……吉牛大盛りツユダク」
「いいね、乗った!」
このところ、頻繁に繰り返している会話を、また今日も繰り返す。
行き先は、吉野家だったり一蘭だったりサイゼリヤだったり、まあ色々だが。
要するに、コイツの苦手な現代文と生物を教えてやる見返りに、影山が俺に昼飯を奢ってくれる、という話だった。
最初はしつこく影山の家に夕食に誘われたが、土曜の夜は俺は裏バイトがあるので固辞して、この形に落ち着いた。
まあ、こいつが考えていることは、大体わかる。要するに、勉強教えろ云々は口実で、俺にその裏バイトをやめさせようとしてるんだろう。
影山は俺の性癖を理解していないのか、と思っていたが、クラスどころか学年全体にまでホモで土曜の夜にオッサン漁ってる、という噂が広がってしまえば、流石のコイツも認めざるを得なかったらしい。
クラスメイトは一時期、俺を遠巻きに眺めていたが、そのうち、俺が誰彼構わず襲う人間ではないということを理解したのか、またもとの距離感に戻っていった。
そういうところ、理系の人間というのは、よくも悪くも合理的で後腐れがない。
ただ、流石に、この俺と二人きりになっても平気でいられるのは、影山くらいだろう。
俺が上位成績者に名前を連ねている限り、こいつは口実でもなんでも俺を頼ってくれる。
それが嬉しくて、卒業後使うアテもないのに、必死で上位の成績をキープしていることは、勿論誰も知らない。
土曜の放課後、吉野家で腹ごしらえしてから、影山の家に向かう。
コイツの家は、新宿三丁目の御苑に近い閑静な場所にあって、昔ながらの古風な木の門がある。
純日本家屋の玄関の敷居を跨ぐと、影山のお袋さんが出迎えてくれた。
俺が1年以上親の顔を見ていない、と言った時、微妙な顔をしていたので、もしかしてコイツも母親がいないんじゃないか、と思ったが、そういうことではなかったらしい。
あまり影山が友人を家に呼ぶことはないみたいで、いつもとても喜んでくれて、途中でおやつを持ってきてくれたりする。いい家族だな、と思う。
「ところでお前さ、こんなに俺といていいわけ? 吉川チャン怒るんじゃねーの? ……つっても今更だけど」
影山の部屋に通してもらって、模試の問題用紙と答案を広げながら、一応友人として心配になり、聞いてみた。
影山は、氷の入った麦茶のグラスを無言で座卓に置いてから、ぼそりと呟いた。
「……別れた」
「……マジ? どっちから?」
「……お互い、もう受験だから、って……つか、どうでもいいだろ、そんな事は。早くやろうぜ」
投げやりな影山の口調が気になった。失恋して、自棄になっているのとも違うような気がした。
「へー。じゃ、今回のC判定は、失恋が原因か」
「うるせえ」
教える、といっても、別に俺が何か特別なことをするわけじゃない。お互い、自分の課題を広げて、たまに、影山がここどうするんだ、なんて相談してくる。ただ一緒に勉強するだけだ。
でも、俺は、そんな静かな時間が好きだった。
距離1m未満。それ以上離れもしないが、くっつきもしない。
俺が、生まれて初めて手に入れた、個体距離。
──うそつき。
時折、そんな声が聞こえる。
──お前は、他人には嘘をつかないが、自分には嘘ばかりだ。
ああ、そうだよ。
自分にこれだけ嘘ついて生きてたら、外向きにまで嘘なんかつきたくなくなるだろ。
ってか、そういうお前も、嘘ッパチだから。
俺の中に、真実なんて、何にもねぇよ。
自分の中の、一人二役の会話は、いつもそうして終わる。
なんだか気が逸れて、問題に集中できず、シャープペンシルを持ったままぼうっと影山の部屋を眺める。勉強机の端に、沢山のMD(ミニ・ディスク)が積まれているのが目に入った。
「……あれ……何聴いてんの?」
思わず、そうこぼしてしまって、しまった、と思った。
音楽の話、されても分からない。
家にプレイヤーねぇし。
「……ああ、あれは、親父の趣味で……。歌謡曲ばかりなんだが。かなり沢山あったから、一応全部聴いとこうかと思って」
「……親父さん?」
「ああ。わりと何でも聴く人で、俺の前では格好つけてクラシックや洋楽を聴いてることが多かったんだが、こういうのは、恥ずかしかったんだろうな。書斎を整理したら出てきた。聴いてみるか?」
影山は、座卓から立つと、MDが50枚ほど入った箱を持ってきた。
全部綺麗にラベルが貼られてあり、几帳面な字で曲名も書き込まれている。影山の親父さんは、相当マメな人だったんだろう。息子のコイツが不器用なのは、不運としかいいようがない。
「松田聖子……中森明菜……薬師丸ひろ子…………へぇ…………」
疎い俺でも知っているような歌手の名前が並んでいる。
「荒井由実……SHOW-YA……浜田麻里……あ、これ、ソウルオリンピックの?」
「そう。お前よく知ってるな。まだ5歳くらいだっただろ?」
「──あの頃のことって、わりと、ピンポイントで覚えてね? そのほかのことは全く覚えてねーのに、ある風景だけ覚えてるとか」
影山の質問にぎくりとしたのを、笑ってごまかした。
ソウルオリンピックは……たぶん、母親とテレビで見ていた。母親の膝に抱かれて。
本物の記憶かどうか、自信がなかったが、浜田麻里の名前で思い出した。──Heart and soul。俺は、この曲が好きだった。この曲と同じ盤に入っていた、My tearsはもっと好きだった。
不覚にも、涙が滲みそうになった。
あれは、本当にあったことだったんだ。俺にも、あんな時間が。
隠したつもりだったが、一粒、こぼした。影山には、見られてしまったんだろう。
影山が、言った。
「それ、コピーしてやる。他にも、なんか、適当にみつくろって」
「──いや、いいわ」
「遠慮すんな。俺も、いままであんまこういうの聴かなかったけど、結構悪くねぇと思ってて。自分用のベストコレクション作りたいと思ってたから」
やけに必死な感じで言い募る影山に、気使わせて悪いな、と思いながら。
これは、もう、言わねえと収まんねえかな、と腹をくくった。
「──悪ィ。もらっても、再生できねんだわ。うち、そういう機械何もねぇから」
日々の生活はギリギリで。ウォークマン欲しい、と、ずっと思ってきたけれど、何万円もするような電子機器は手が出なかった。第一、こういうものは、買った後にも、メディア代も電池代もかかる。
影山は、しばらくじっと黙り込んでいたが、やおら立ち上がって、部屋を出ていってしまった。何か気に障るようなことしたか、俺? と思っていたら、すぐに戻ってきて、その時には、手に小さな箱を抱えていた。
「──これ、俺のだから、貸してやる。俺は、今は親父の使ってるから」
「────ごめん、そういうつもりじゃ」
「いいから!」
有無を言わさない声に、はっとした。
影山が、俺を見ている。
黒い瞳の奥に、黒曜石みたいな、硬質の光が見えた。
「やるとは言ってない。遠慮、すんな。──頼むから」
親友、だから?
影山は、もう、うちがどういう家庭環境か、だいたい感づいてるんだろう。
ウォークマンなんて買えねえ経済状態だってことも。
もしかしたら、裏バイトが、ただの遊びじゃなくて、生活の手段になってることも、薄々気づいてるのかもしれない。
昼飯おごりたがるのも、多分、俺がまともに食ってないと思ってるのかな。
それでも、こいつは、あからさまに止めろ、とは言わない。
そう、決めたんだろう。
だから。
「──わかった。じゃ、有り難く借りとくわ。……返す時には、バリバリにカスタマイズして、俺のプリクラ貼りまくって返してやるから、楽しみにしてな!」
うまく、軽薄に笑えただろうか。
結局、その後は、どの曲をチョイスするか、何枚のディスクにおさめるか、喧々諤々で、まるで勉強にはならなかった。
家に戻って、今日一枚だけ先にもらったディスクをかけた。
一番最初に、浜田麻里のMy tearsが入っていた。
なんで、Heart and Soulが先じゃないんだ。そのことに少しひっかかりを感じたけれど、まあ、多分、影山もこの曲が好きなんだろう。
愛 口ずさんだ言葉の その意味を
いつの日か 知り始めても
この夢に勝てない
時 移りゆき 思い出にはぐれても
この世に生きるすべを
探して 歩いていきたい
My Tears 今 この一瞬に
すべてをかけてゆけるのなら
My Tears 涙もかれるほど
命の限りに生きてきた
永遠の夢 心に満ちていく日まで
想いあるがままにゆくことの難しさを
時代は教えるけれど ひとつかみ勇気をください
……こんな、歌詞だったんだ。
なんだ、アイツ、俺にエールでも贈りたかったのかな。
My Tears 今 この一瞬に
すべてをかけてゆけるのなら
My Tears 涙はもう捨てて
命の限りに生きていく
悲しみを勲章に変えられる日まで……
その夜は、とても男を漁る気にはなれなくて。
影山がコピーしてくれたその一枚のMDを、一晩中きいていた。
悲しいわけではないのに、涙が溢れて止まらなかった。
何年も涙なんか出なかったのに、このところ、泣いてばかりだ。
どうなってんだ、俺の体。
悲しみを勲章に変えられる日。
そんな日が、本当に、来るんだろうか。
明日には、この歌詞みたいに、涙を捨てて、また歩いていけるだろうか。
歩いて行った先に、なにかが、あるのか。
なにも見えない。なにも聞こえない。
それでも。
きっと、俺は、また一歩、歩いていくんだろう。
呪いのように、──恵みのように。