真夜中の鳥 4 (矢代)
四
「──俺、バイなんだ」
その日、いつものように影山に傷痕を触らせながら、なんでそれを口にしたのか、実はよく覚えていない。
本当に、完全に思いつきだったんだと思う。
なぜなら、頭では、それを切り出したらこの関係が終わる、とわかっていたからだ。
俺の頭は、たまにバグを起こす。自分でも考えてもいなかったことが口から飛び出してきたり、行動に反映されたりしてしまう。
そういうとき、俺は大抵、そこに至った思考の過程を覚えていない。
あとから思いかえそうとしても、霞がかかったように、そのときの思考回路を追えない。
たぶん、これが世の中で言われる「いきなりキレる」というやつなんだろう。
自分の思考の軌跡が追えないのは怖い──だから、俺は、そういうとき、反射的にその理由を後づけでこしらえる癖がついていた。
たんに、影山をからかってやりたかった。こいつの焦る顔が見たかった。
きっとそういうことなんだろう、と。
本当のことを言えば、俺は、男も女も好きになったことはない。
性別以前に、人をそういう意味で好きになる、という感情がわからなかった。
なにしろ、人がそばにくれば、自分の体が臭くてたまらないのだから。
ちゃんと風呂にも入っているし、精神的なもので、現実の匂いではないことは分かっている。とはいえ、自分の脳は確実に匂いを感じていて、吐き気がするから、誰かのそばに寄りたいとは思わないし、寄られたいとも思わなかった。
どういうわけか、クズみたいな乱暴な男と寝るときだけは別で、匂いがしない。多分、相手もどうせ腐ってる、と思うから、自分の匂いが気にならないんだろう。
だから、真っ当な人間なのに側に寄られても匂いがしない影山は、俺にとって本当に例外中の例外だった。
俺の唐突な告白にも、影山は、本当に聞いてんのか、ってくらい、無表情で、眉ひとつ動かさなかった。
バイってわかんねえ? と水を向けてみたけど、影山の表情筋は沈黙したままで、ただ、唇が小さく、「…いや…そうか」と呟いた。
……つまらん。
そうか、じゃねえよ。
同性のクラスメイトが、お前を毎日エロい目で見てるかもしんねえ、って話なんだけど?
唐突に、その鉄面皮をひっぺがしてやりたくなった。
「それだけじゃない」
耳をつまんで思い切り引っ張ってやったら、初めて一瞬、影山が痛みに顔を歪めた。
その瞬間、影山の眉間に刻まれた深い陰影に、背筋を電気が走ったのを感じた。
なんだ、こいつ、こんな表情もできんじゃん。
「小学校3年から中学まで母親の再婚相手にセックスを強要されてからというもの、セックスのことが頭から離れない」
一息に、引っ張った耳の穴の中に叩き込むみたいにしてそう言ってやったら、ようやく影山が驚いた瞳でこちらを見た。
はっとしたような。
いつもは黒く塗りつぶされている瞳孔の深い奥底に、閃く感情が透けて見えるような、その、瞳の色。
思いがけず、胸を掴まれた。
そうだ。これが見たかった。
──もっと、見せて。
切望、というものがあるとしたら、たぶん、このときの俺のその感情がそうだったかもしれない。
けれど、影山は一瞬だけ見せたその稀有な瞳の色を、またすぐに伏せがちの眼の奥に仕舞い込んで、俯いてしまった。
「──そうか」
俺は、思いがけずおとずれた、たぶん一生に一度か二度のその機会が、敢え無くも潰え去ってしまったのを感じた。
何を?
機会、ってなんだ。
自分は、何を望んでいたのだろう?
わからないまま、なにかが、永遠に失われた、その喪失感だけが、ぎりぎりと胸を締め付けた。
どうして、こんなに心臓が痛いんだろう。
すぐに外されてしまった視線が、どうして、こんなにも───
──その上、ドMなんだぜ──
その言葉は、声にはならなかった。
たとえ口にしても、もう影山には届かない。
そう、分かっていた。
その週末、俺はかなりキレたヤクザ相手にウリをやらかして、結構深刻な怪我を全身に負った。
担任は何度も、他校の生徒との喧嘩じゃないのか、と探りを入れてきたが、いくら相手の学校名を聞かれてもそんなヤツは存在しないので答えられない。とにかく、いきなりボコられたのでよく覚えてない、の一点張りで押し通した。
それはともかく、月曜にはかならずこちらの手首チェックにくるはずの影山の姿がなく、火曜になってもまだ学校を休んでいたので、担任の追求を切り上げるためもあって俺は話題を変えた。
「それより先生、昨日から影山休みみたいですけど」
「ん? ああ……親父さんが亡くなったんだ」
まったく想像していなかった一言に、しばらく、思考がフリーズした。
俺には、父親の記憶がない。
自分が父親だと思えるような父親は、という話だが。
戸籍上の義父は、親父だなんて思ったことはないから、父親を失う、という感覚は正直わからない。アイツがどこかでのたれ死んでも、ふーん、そうか、と思うだけだ。
それなのに、何故、見たこともない影山の父親が死んだからといって、こうも心を乱されなければならないのか。
また、思考の過程が飛んで、気づいたら、俺は、雨の中、影山の家の前に立っていた。
そうだ、あいつが泣いているかもしれない、と思った。それが見たくて、こんなところまで来たんだ。
また、いつものように、後付けで自分の行動の理由を考える。
そのくせ、門をくぐる勇気はなかった。
影山の、兄弟の話とか、親の話とか、聞いたことがない。
弁当は持ってきているから、たぶん母親はいるんだろう。
でも、もし母一人、子一人だったら。気落ちしている母親を支えて、こんなところまで、出てくる暇はないだろう。
わかっているのに、足が動かなかった。
30分ほども立ち尽くして、それでもまだ動けなくて。
いい加減あたりも薄暗くなってきた頃、ふいに、横から現れた人影に腕をとられた。
「矢代?」
振り向くと、傘もささずに、濡れている影山の姿があった。
「やっぱりそうだった。制服見えたから……」
ああ、思ったより、喋れんじゃん、お前。
いつもより少し早口な影山に、ぼんやりとそんなことを思った
「どうした? 先生に聞いたのか?」
「あ……うん」
むしろ、俺の方が、言葉が出てこない。
影山の涙を、見たかったんじゃなかったのか?
でも、あれ?
──顔が、見れない。
影山から、親父さんの容体が悪いなんて、一言もきいたことがなかった。
つまり、俺に伝える必要はなかった、ってことだ。
俺のあんな遊びに付き合ったのは、不安を紛らわせたかったからなのか。
──それなのに、勝手に葬式に来るとか。
また、やらかした、と思った。距離が近すぎる。
そういや、考えナシに来たから、香典もない。
「でも俺…香典とかなくて」
「バカ……いらねえよ」
唐突に、この場から逃げ出したい、なんて思った俺に、影山はやさしい声で言った。
こんなに優しいあいつの声を、俺は、聞いたことがなかった。
「ありがとな……」
毎晩、夢に見る。
優しい声に誘われて、顔を上げた先に見た、影山の微笑。
目尻にも頰にも、涙の跡があって、目は赤く泣き腫らしていた。
あの面影が、肺腑の奥に焼き付いて、息ができない。
あれ以来、俺はウリをやめた。正確には、他の男に構う余裕がなくなった。
完全に体がおかしなことになっていて、四六時中勃起していたから、学校でも家でも、とにかく影山のあの面影を思って抜いていた。
10代の体って、1日に10回以上出せるんだ。そんなことを思いながら、出しても全然訪れてくれない賢者タイムに、俺の体一体どうなってんの? なんて悪態ついて。
そして、予想通り、影山と俺の秘密の時間は終わった。
まあ、親父さんもいなくなって、あいつもそれどころじゃないんだろう。
お前が、残った家族の柱にならなくちゃならないんだもんな。
葬式も埋骨も終わって、学校では普段通りの生活が始まった。
影山は相変わらず無表情で、たぶん、こいつが親父さんを亡くしたことなんて、クラスのほとんどの人間は知らないんだろう。
ただ、昼メシ時は、俺の机に来るようになった。何を喋るわけでもなく、黙々と飯食って、終わったら隣で本を読んでいる。自分の席で読めばいいのに。
「なー、最近のさー、俺のオナペット知ってる?」
ふいに、そんな言葉が勝手に口から飛び出した。言ってしまってから、何バカなこと言ってんだ、俺? と思った。
まあ、でも、お前も距離感おかしい奴だから、このくらい、サラリと流してくれるだろう。
「知るか」
ほらな。こういう話されても、無関心なだけで、反射的に体がビクつくようなこともない。
「葬式ん時泣いてたお前ーっ! 声なんか震えててよ、可愛かったぜ──っ!」
ああ、バカだな、俺。これは、言っちゃいけないやつだろ。
クラスの人間は、全員俺はこういうことを平気で言う空気読めない奴だと思っているだろうが、別に、言っていいことと悪いことの分別がつかないわけじゃない。
ただ、分かっていても、止まらないだけで。
影山は、眉をひそめて、ひとつ溜息をつくと、無言で立って自分の席に戻ってしまった。
──なんか言えよ、コラ。
不意に心に浮かんできた言葉に、ああ、俺は、こいつと話がしたかったのか、と思った。
だったら、他にいくらでもかける言葉はあっただろうに。
救いようのないバカだな、俺。
俺は今、とてつもなく歪んでいる。
ドMな俺が、こんなにも普通に影山に欲情してるのは、歪んでる証拠だ。
普通? いや、普通じゃねえか。
普通は、葬式で大事な人を亡くして泣いている男に欲情しないだろ。
あいつの泣き顔が見たい。あいつの心をめちゃくちゃに引っ掻いて、泣かせてやりたい。
でも、あいつに、嫌われたくない。
歪んでいるのは俺だ。あいつのせいじゃない。
放課後、俺に声もかけず帰った影山の机の中に、コンタクトケースを見つけた。
中を開けてみたら、レンズが入っていた。
あいつ、体育の授業で外したあと、入れ直すの忘れたのか?
よく知らねえけど、きっと高いものだろう。家で、なくて困るかもしれない。
帰りがけに、家に届けてやろうか?
ふと、そんな考えが頭をよぎって、そのケースをズボンのポケットに入れた。
あいつのコンタクトケースが入っているポケットの中が、握り込んだ手のひらが。
ちりちりと、まだ火のついている線香花火を握り潰したみたいに、熱かった。
──そのケースが、あいつの手に戻ることは2度とない、と。
本当は、心のどこかで、知っていた。
しばらくして、影山がD組の吉川に告られてるのを見た。
ああ、部活、同じだもんな。空手部。ショートカットで、あんまり女っぽくはない。
実をいうと、俺も結構告られる。全員、クラス違う奴だけど。遠くから見るにはちょうどいいんだろう。そして、はっきりいって、全員、俺の好みじゃない。
中学の時に、ヤれりゃなんでもいいか、と思って2度ほど付き合ったが、普段の鬱憤なのかなんなのか、いざ自分がヤる方になったら自分でも驚くほどのサドっ気が発揮されてしまい、本気で泣かれて警察に駆け込まれそうになった。
以来、その手のお誘いは全部お断りするようになった。
断る理由は簡単。ホモだから。タマがついてない奴には勃たない。
実は嘘で、本当は勃つけど、これで女は全員黙る。ああ、一人だけ、プラトニックでいい、とか言ってきた奴がいるけど、「何ソレ、楽しいの? 俺ヤれもしない相手と喋るほど暇じゃないんだけど」と言ってやったら、泣きながら帰っていった。
まあ、影山は、間違ってもそういうことは言わないだろう。
あの吉川と、付き合って、ヤるのかな。
あの無表情鉄仮面が、女抱く時には、やっぱ欲情すんのかな。
そう思ったら、ゾクゾクした。
「吉川と付き合うのか?」
「……わからん」
影山は相変わらず無表情だったが、その返事のときだけ、ちょっと困ったような顔をした。
なんだよ。脈ありじゃんか。鉄仮面のお前の顔を、そんな風に歪められるなんて。
「付き合っちゃえよ! 横田たちがうらやましがってたぜーっ!」
さっさと付き合って。幸せになったらいいよ、お前は。
辛いことは、そうして忘れたらいい。
心の中で盛大に不平不満を鳴らした声をすっぱり無視して、そんな優等生の声だけを拾い上げた。
自慢じゃないが俺は演技が上手いので、どんなに心の中がドロドロしていようと顔色を変えることなく接することができる。
ただ、それは無理をしている、というのとは、ちょっと違う。
ドロドロしているのは本当だ。だけど、それと同じくらい、コイツには幸せになってほしい、とも思っている。
その一方で、お前だけが幸せになるなんて許さない、めちゃくちゃにしてやりたい、とも思ってるから、我ながら油断ならないけど。
そのうちのどれを外に出すか──それだけの問題だ。
コントロールできるときもあれば、できないときもある。
今はまだ、コントロールできる。というか、こいつには嫌われたくない、って感情があるから、自然と選べる行動は一択になってる。
友人っぽい位置だけは、手放したくない。
そんなふうに、必死で崖っぷちにしがみ付いている自分が笑えた。
吉川と付き合って、──まあ、3ヶ月くらいは、手を出さないで、フツーにキスだけとか、高校生っぽいおつきあいをするんだろう。クソ真面目だからな、こいつは。
それから。
吉川の体も、あの大きな手で、触るんだろう。
……俺の体に、そうしたみたいに。
こいつは、どうも、女と付き合う、ってことがどういうことなのかあまりよく分かっていないらしい。
まあ、俺も、人のことを言えたモンじゃないが。
「矢代、一緒に食いに行くか?」
帰り道、吉川と相合傘で駅まで歩くあいつが、後ろの俺を振り返った。
……オイオイ、お前らのデートに、俺一人ボッチで割り込めって?
だいたい、そんなにホイホイ外食できるほど、こっちは潤沢な資金を持ち合わせてない。
「わりィっ! 俺これからオナニーっていう大事な用があってさー!」
これは嘘じゃない。ホントに、もう前がキツくなってきてる。
吉川の背中が、一瞬凍ったのがわかった。まあ、普通、そういうこと言われたら女子は驚くわな。
安心しろよ。お前らの邪魔はしねえから。
だって、ズリネタ、お前らだし。
お前らがヤってんの、想像したら、おかわり3杯はいけるわ。
「……そうかよ」
影山は溜息をついて、もう、後ろは振り返らなかった。
因果報応、身から出たサビ、自分で蒔いた種、とまあ、色々、その手の表現がある、ということは、やっぱり世の中はそういうふうにできているんだろう。
ゲイだから、と嘘をついて立て続けに数人振ったことが、いつの間にか噂になっていたらしい。
しばらく手当たり次第のウリは控えていたが、いい加減、影山ばかりでオナるのもどうかと思ったので、久しぶりにどこぞのデブいおっさんに掘らせた後のことだった。
放課後のホームルームが終わった直後、露骨に絡まれた。
「なあなあ、矢代ってホモなの?」
まだ女子もそのへんにいて、そういうことをわざと聞こえる声で言うってことは、たぶんコイツは何か俺に恨みがあるんだろう。いつものことながら、こっちにその覚えはまったくないが、まあ、俺が何かしたのかもしれない。(ああ、もしかして、俺が振った女に惚れてたのか?)
「先週の土曜日見かけちゃったんだよねぇ、お前がホテルに入ってくとこ。すげえデブなおっさんといたよなぁ」
ああ、まずいな、と思った。教員にバレたら、確実に指導が入る。
「あれ、マジ? てゆうか、やっぱ売春とか、そういうの?」
「俺だったら100万もらってもあんな汚ねえの勘弁だわ」
「なあ、いくら貰ってんの? 十万? 五万?」
バカだな、と思った。
人気AV女優じゃあるまいし、こんなガキが、ちょっとケツ貸したくらいで、そんな金がとれるわけがない。
高校生だから、そんな値がつく価値があると思ってるなら、相当オメデタイ奴らだ。
顔を上げた先に、影山の姿があった。あの、なんの感情も浮かべていない目で、じっと俺を見下ろしていた。
その目と視線が合った瞬間、周囲から、音が消えた。
ああ、そういう目で、見るんだな、お前。
やっぱ、気色悪ィ、か。
そりゃ、そうだよな。俺だって、クラスの他の奴らが他所のオッサン相手に体売ってたら、気色悪いと思うわ。ましてやお前、クソ真面目だもんなあ。
……やっぱ、もう、近づきたくねえとか、思うのかな?
そんな声が、頭の中で聞こえて、その直後、何かが焼き切れた。
「矢代てめえ、はなせ…っ!」
影山が、見ている。
俺を、見ている。
「矢代!! やめろ、矢代!! ……もういい!」
俺は、何をした?
この煩い奴の口をキスで塞いで、ああ、タマを握り潰したのか。
触ったモノは縮み上がってて、フニャフニャで、笑えた。
影山が、俺を抱え込んで、俺の名前を叫んでいる。
何度も、何度も。
誰だ? この、狂ったような笑い声。
────ああ、俺、か。