Song of the birds

ヨネダコウ先生の「囀る鳥は羽ばたかない」二次創作サイトです。同好の士以外の方は回れ右でお願いします…

真夜中の鳥 2(影山)

時折、俺が部活を終えて帰る時刻に、ひっそりと病院の裏口から帰る患者がいる。
 いつも顔を隠すように俯いて、時折、小さな女の子の手をひいている。
 その患者の帰ったあとの父の顔は、きまって曇りがちで、かならずひとつ大きな溜息をつく。
 まるで、自分の無力に打ちのめされたかのように。

 

 親父は、2年前に膵臓がんが見つかった。ステージ4だった。
 手術が可能なタイプだったのはまだ幸運だったが、この先の命がどれほどのものか、本人が一番よく知っているだろう。
 だから、その日がくるまで診療を続ける、と言った時、お袋も俺も止めなかった。

「……あの、たまに時間外で来る母娘の患者。……家庭内暴力、なんだろ?」

 月が明るい縁側の、親父の横に腰掛けて、先週も見かけた母娘のことを聞いてみた。
 顔に貼られた大きな絆創膏や、腕の包帯。
 一度や二度ならともかく、頻繁に見かければ、流石に俺でも気づく。
「女の子の方は、今は母親が体張って守ってるみたいだが……あの子が被害者になる前に、説得すべきなんじゃないのか、ってずっと思ってた。然るべきところに相談して守ってもらえ、って……。でも、実際に自分が目撃者になったら、どうしたらいいのか……」
「学校で、見たのか?」
「……よく、わかんねえ。ただ、あの怪我はイジメじゃない気がして……。本人も隠してるし、偶然見ただけで」
 偶然、というのは、勿論嘘だ。多少良心が痛んだが、それよりも、今は聞きたいことがあった。
「去年から同じクラスだけど、友達、ってわけでもない。ここ最近に始まった怪我でもないし、ずっとそんな感じみたいだ。怪我の多い奴だが入院はしたことないし、特に落ち込んでる様子もなくて……俺の勘違いかもしれない。……だから、あいつが相談してこない限り、すぐに何かする、とかはねぇんだけど……親父はこういうとき、どうしてるのか知りたくて」
「成程……」
 親父は、腑に落ちたような表情をして、手にしていた湯呑みの茶を一口啜った。
「……あの母子は、新大久保の奥田医院の院長からまわってきた二人でな……気づかない振りをして、手当てしてやってくれ、と頼まれた」
「気づかないフリ、って……」
「保険が、ないんだ。それ以上に、あの二人は、もう3軒も病院から逃げてる。医師がその話をすると、きまって、それ以降、二度と足を運ばなくなるんだそうだ」
 親父は、淡々と、奥田院長から聞いたその母娘がこれまで辿ってきた道のりを語った。
 詳しいことは語らないが、おそらく日本の生まれではなく、不法移民の可能性もあること。度重なる怪我を見かねて、これまで何人もの医師が力を貸そうとしたが、そうするとひどく怯えて二度とその病院には行かなくなること。奥田院長が長い時間をかけて心を開かせようとしたが叶わず、あるときからパッタリと来院しなくなったこと。
「原因がわからず、スタッフに事情をきいたところ、若い看護師が見かねて家庭内暴力の電話相談チラシを手渡してしまったことが判明したらしい。奥田先生は、二人が気になって患者のアパートまで出向いたが会ってもらえず、仕方なく、次から治療が必要ならこちらを訪ねろ、とうちの病院の住所を書いたメモをドアの隙間から差し入れたそうだ」
「……なんで、そこまで」
「よほど、過去に怖い目に遭ったんだろうな。誰かが、彼らを助けようとした。その手に縋った結果、さらに悲惨な現実に晒された……周囲が中途半端に手を出したばかりに、加害者の怒りを買い、逃げた先の住所まで突き止められ、更なる地獄に叩き込まれた例はいくらでもあるからな……」
 あくまで推測だが、と、親父はまたひとつ溜息をついた。
「俺がこうして見て見ぬ振りをし続けた結果、明日あの母娘が殺されたことを新聞で知ったら、俺は多分一生後悔するだろう。……たいして残ってもいない人生だがな」
「……それは、親父のせいじゃないだろ。そもそも、母親は明らかに怪我を負わされてるじゃないか。他人がやれば傷害事件だ。なのに、加害者が家族だからって理由だけで、行政も司法も何もできないのか?」
「海外には、家庭内暴力を取り締まる法律もある。日本もじきにできるだろう。でも、問題はそこじゃない。もちろんその法律で救われる命もあるだろうが、そもそも、手を差し伸べられることを望んでいない人間に対しては、どうしようもないんだ……。医師は所詮他人だ。患者が心の傷を見せることは少ない。……ただ、気にかけている、と、伝えることはできる。何も聞かなければ体の傷は見せてくれるというなら、どんな時でもそれを治療することで、大切な命のひとつだと伝え続けることはできる。……何も詮索せずに、時間外でも受け入れる理由は、それだけだよ」
 彼らのことを気にかけている人間がいる。
 それを伝え続けて、いつか、本当に逃げ場を失い困ったときに、思い出してほしい。
「……なんてな。格好つけても、俺はこの通り、いつこの病院を廃業するかもわからん身だ。……だから、俺が動けなくなった後に、もしあの母娘が訪ねてきたら、教えてやって欲しい。奥田先生は二度と詮索はしないといっているから、安心して通院していい、と。……それを、お前に伝えておきたかった」

 親父の話を聞きながら、俺は、矢代のことを考えていた。
 手を差し伸べられることを望んでいない人間に対しては、どうしようもない……。
 あいつの目は、いつも遠くを眺めているようで、時折、同じ時間、同じ空間にいるのに、どこか違う時間を生きているように見えてしまう。
 普通、俺たちの年齢なら、もう少し精気というか、生命力を感じるものなんじゃないだろうか。
 
「……お前のクラスメイトの件だが。本人のカラ元気は、あてにならない。人間ってのは怖いもんでな……恐怖や痛みに晒され続けると、それに慣れる。慣れれば、平気な顔も簡単に出来るようになる。よく見れば違和感があることもあるが、それに頼るのは危険だ。
 それよりも、家庭内暴力は、何かのきっかけでエスカレートすることがある。だから、お前から見た怪我の度合いが酷くなったら注意しろ。たとえば、学校を休み始める、とかも大事なサインだ。怪我が隠しきれなくなって、かといって家にも居られず、外で時間を潰してるケースがある。お前の高校は、本人からの欠席連絡も受け付けるだろう?」
 そういえばそうだった。うちの学校は、体調管理も含めて、学生個人の自主性を尊重する、というのをモットーにしている。勿論頻繁に欠席すれば親に連絡されるが、成績も優秀で、ほとんど欠席しない矢代が自分から欠席連絡をしてきたとしても、まず教官は疑わないだろう。
「今までがギリギリ致命傷には至らなかったのだとしても、もし本当に家庭内暴力なら、常に命の危険があることに変わりはない。……お前がそのクラスメイトの信頼を得て、もう少し詳しい話を聞けるようになるのが一番確実だが……それには相当な覚悟も要るぞ」
「……ああ、わかってる。……サンキュ、親父」


 俺は、あいつに何かをしてやりたいのか。
 それは、同情なのか、それとも、あいつの秘密を暴いてしまったことへの罪悪感なのか。
 何も、わからない。

 瞼の奥に、火傷で引き攣れた皮膚の残像が残っていた。
 俺は、火傷の痕に異常な執着がある。目の前で見ると、もっと見たい、触りたい、という欲求を抑えきれない。
 あれを、もう一度見たい。
 ……俺があいつに関わろうとするのは、それが理由なんじゃないか?

 矢代に対して、他のクラスメイトとは違う感情があるのはとうに自覚していたが、そんな違和感も吹き飛ばすほどの「特別」が更に追加されてしまった今、たとえ何か行動を起こしたとしても、自分の行動に、なんの正当性も見出せないような気がした。

『それには相当な覚悟もいるぞ』

 その言葉は、それが経験者の言葉だからこそ、重みがある。
 俺に対し、どうしろ、とも言わなかったのも、そのためなのだろう。

 


 俺の母は、昔、付き合っていた男に暴力を振るわれていた。
 しかし、この件は、公にはなっていない。下手につつけば、また昔の男に居場所を特定されかねないからだ。
 父の苗字は、昔は石原だった。父は、影山家の跡取りの内縁の妻から生まれて、母親の姓で育った。格式を重んじた影山家が、俺の祖母との結婚を許さなかったらしい。ただ、二人の仲は悪くはなく、父も十分な教育を受けて育ち、医者になった。
 俺の母と知り合ったのは、父が地方の学会のため出張に出ていた最中のことだった。会場の大学に向かう途中に、アパートの前を裸足で歩いていた女性を保護し、ひどく怯えていたのでそのまま自分の宿泊するホテルに匿った。最初は、警察に届け出て対応を任せるつもりだった父は、暴力をふるう男からの逃亡に何度も失敗していることを母から聞き、とにかく一度東京まで逃すことを決めた。
 個人情報の保護、なんて言葉が存在しなかった時代の話だ。
 外面だけは良かったその男は、学会のプログラムに記載された父の名前と所属機関名を頼りに、当時父が住んでいたアパートを割り出して追いかけてきた。
 見つかるたびに何度も住む場所を変え、職場も変え、最後には結局跡取りができなかった影山家を継ぐ条件で父が影山家の養子に入り、苗字を変えることで漸く男の追跡を振り切ったのだ。
 しばらくして、母の妊娠が判明し、二人は籍を入れた。
 その時既に、父は五十を超えていた。

 父は自分にとって白馬の王子様で、怖い魔王から助けてくれた。
 俺が幼い頃、母はよくそんな話をした。だからといって、お前もそういう男になれ、と言われたことは一度もない。
 それがどれほどの覚悟と犠牲を伴うものか、知っていたからだろう。
 母の胸には、一面に、蝋燭で焼かれた火傷の痕があった。

 普通、蝋燭プレイには、専用の低温蝋燭を使う。
 だが、あれほど酷いケロイドになるなら、その男は安い洋蝋燭を至近距離から垂らして、母が悶絶するのを眺めていたのだろう。何度も焼かれて、ひきつれた皮膚が、乳房を覆っていた。
 しかし、そんなことが分からない子供の俺には、乳房を覆うピンク色のケロイドの痕はつるつるとして、とても綺麗に見えた。生まれた直後から、それを眺めて触りながら乳を飲んでいたわけで、俺にとっては、そこにあるのが当たり前のものだった。
 俺のケロイドに対する異常な執着の根っこがそこにあるのは、おそらく間違いないだろうが、別に母親の乳房にもう一度触りたいわけじゃない。
 ただ、艶かしい薄ピンクのケロイド状の肌の色を見ると、性的に興奮する、というだけだ。

 小学校に上がる頃には、父の書斎の専門書をこっそり開いて、その症例写真を眺めるのが密かな楽しみになっていた。
 自分でもおかしい趣味だというのは気づいていたので、両親にはバレないように注意していたが、たまに俺が父の本を盗み読みしていることには早々に気づかれて、父はきちんと元の位置に戻しておくならいつ書斎に入って本を読んでもいい、と言ってくれた。
 流石に、ケロイド写真で興奮しているだけ、というのは申し訳なくて、他の部分も眺めるうちに、医者という職業も悪くない、と思うようになった。
 ……その一方で、母にどんな虐待が加えられていたのかも、その写真を通して知ることになったが。
 小学校三年生の頃の話だ。
 当時も今も、俺には、恋人の心身を傷つける虐待を行う人間の気持ちはわからない。
 わからないのに、この趣味が行き着く先は、そのような人間と同じところにあるような気がして、俺は父の専門書を盗み見る事をやめた。
 
 
 中学に上がり、それが虐待の中でも性虐待と呼ばれる範疇のものであることを知った。
 知ってしまえば、自分がケロイドに性的興奮を覚えるなど、到底口にできるはずもなかった。
 密かに皮膚科医になりたいと思っていた俺は、父の病院を継げるから、という理由で、内科医になる、と両親に告げた。
 ……本当は、怖かった。
 自分のケロイドに対する異常な執着が、いつか、取り返しのつかない結果に繋がってしまいそうで……。


 おまえのことを、気にかけている人間がいる、と。
 そう伝えることで、何かが、変わるんだろうか?


 生ぬるい夏の夜気の中、不意にひんやりと頬を撫でていった一陣の風に、つかみどころがないまま、印象だけを残していくあいつを思った。