Song of the birds

ヨネダコウ先生の「囀る鳥は羽ばたかない」二次創作サイトです。同好の士以外の方は回れ右でお願いします…

真夜中の鳥 3(影山)


「これ、やる。……腕、見えてんぞ」

 すっかり月曜朝の恒例行事となった腕の痣の確認と絆創膏の支給を済ませると、矢代は一瞬口をぽかんと開けて、それからわざとらしさ全開の軽薄な笑いを浮かべた。

「わーっ、ばんそーこーだーっ! しかも今日は3つも! うれしーなーっ、どこに貼ろー、わくわくっ!」

 こいつが、こういう物言いで会話に参加するようになったのは、いつごろからだったろう。
 この学校に入学した当時は、そんな軽口もほとんど叩かなかった。
 でも、それではかえって目立つ、ということに、そのうち気づいたらしい。
 一本どころかゴッソリ頭のネジが抜けていると思われても仕方のない態度を、こいつは、クラスメイトの不安げな表情を見ても止めなかった。
 これで成績も底辺だったら、ただのバカ、で済むんだが。
 俺だけでなく、皆も多分わかっている。
 こいつが未だに、誰にも見せない何かを背後に隠していて、それは卒業するまで、決して明かされることはないのだろう、ということを。

 袖口から覗いていた鬱血痕は、今日は三重にも重なっていて、一部皮膚が裂けて瘡蓋になっていた。
 隠してはいるが、あれは相当腫れているだろう。
 勿論、絆創膏でどうにかなる傷じゃない。でも、だからといって、ガーゼや湿布、包帯まで渡すというわけにもいかない。
 俺の役目は……ただ、お前の怪我に気づいている、ということを伝えるだけだ。
 
 お前のことを、気にかけている人間がいる。
 お前の怪我を、いつでも治療する準備をしている奴がいる。

 ……こんなことで、本当に、何かが変わるんだろうか?

 

 選んだはいいが、自分の選択の正しさに自信を持てないまま、いっそもう1段階手首を痛めてココに来れば手当ができるのに、と密かに思いつつ保健当番をこなしていたある放課後。
 あいつが、思いもよらない理由で、保健室にやってきた。

「あれっ、保健室の先生は──?」

 ノックもせずに開かれた扉の向こうに、片腕を力なく下げた矢代が立っていた。
 ……肩関節脱臼だ。
 一体、なにをやらかした?

「出張だそうだ」
「なんでいんの?」
「保健委員」

 間違ったことは言ってない。
 ……もしかしたら矢代が来るかも、という1%の期待にかけて、今週の当番を変わってもらったことを、告げる気も、勿論ない。

「あ──っ! そうだ、お前だ! 家が開業医だからって理由で保健委員押し付けられてたの。 おぼっちゃま!」

 矢代は、またあの軽薄な声で思い切り叫んで、その後、少し痛そうに眉を顰めた。
 バカ、動かすからだ。
 てか、人を指差すな、人を!

「どうした?」
「ん? あ、そうだった。お前、脱臼直せる? うまくはまんなくてさ」

 典型的反復性肩関節脱臼だ。そもそも、初回だったらこんなに動けるわけがない。
 あまりに繰り返すと、もはやあまり痛みも感じなくなるが、眉を顰めたところを見ると、筋か腱が攣っているのだろう。それなりに痛いはずだ。

「素人が弄るもんじゃねえんだがな……──座れよ」

 一応空手部に所属しているので、実はこの手の処置は日常茶飯だった。ただ、どういう状況で外れたのかよくわからないし、筋を痛めているかもしれないので、俺が手を出すべきじゃないのは重々わかっていた。

 わかってはいた、が。

「──────っ………」

 昼間の明るい窓から差し込む光が逆光になって、その暗がりの中で、矢代の少し色素の薄い眉が強くしなったのを見た。
 右手で触れた肩は燃えるように熱く、それに全ての熱を奪われたかのように、その先の腕はひんやりと冷たくて、血の通わない陶器の人形を思わせた。
 それを、無理矢理に捉えて、逃げられないようにしておいて、力を込めて押し込む。
 そのゴリっとした骨の軋む感触に、腹の奥底で、何かが疼いた。
 噛み殺しきれなかった、つめた息が漏れ、いつも軽薄な笑いを浮かべている唇が、少し青ざめて、小刻みに震えているのを見た。
 こんなに近くまで寄らなければ、きっと見逃していただろう。

 俺は、今、こいつと、体ひとつ分の距離にいる。
 ……たった、それだけのために。

「大丈夫か? 痛みは?」

 気遣っているふりだけは立派な自分の言葉が、舌の奥で苦い。
 大丈夫か、じゃねぇだろ。
 こういうときは、動かさないように保定して、即整形外科か整骨院だ。

「……大丈夫。サンキュ、たぶんハマった」
「筋痛めてるかもしんねえから、必ず病院行けよ」

 言いながら、コイツは絶対に病院になんか行かないだろう、と知っていた。
 あんな緊縛痕、目にしてしまえば、医者ならまずイジメか家庭内暴力を疑う。児相に連絡するかもしれない。
 なによりも、誰の目にもとまらないように、誰にも本心を見せないように生きているコイツが、誰かに自分の疵を見せる選択をするとは、到底思えなかった。

「いや──っっ、悪ィ悪ィ。助かったよっ、カンチくん」
「莞爾」
「かんじくん」

 どうせ病院に行く気がないなら、俺が医者の真似事をして肩を嵌め直したことにも、意味があるのかもしれない。
 矢代は「助かった」と言う。その言葉に、偽りはないんだろう。
 それなら………

「しっかし、壁にぶつかっただけで脱臼とかあんだな──っ、びっくり!」

 脱臼は繰り返すと、クシャミ程度の衝撃でも起きるようになる。
 そんなに頻繁に肩が抜けるほど、酷い暴力を繰り返し受けているのか。
 そう思った瞬間に、自分でもまったく考えていなかった一言を、自分の口が語るのを聞いた。

「傷、見せろ」
「……は?」
「手当てしてやるから。他の傷」

 ──自分からは、踏み込まないんじゃなかったのか。
 ウカツな自分に苛立ちながら、一度その言葉を口にしてしまえば、それ以外に道はなかったようにも思えて、俺は仁王立ちのまま矢代を見下ろした。

「いやいや、いらねーし」

 矢代は、どこか困ったような薄ら笑いを浮かべて手を振った。
 ああ、お前はそういうだろうよ。
 だったら、肩が外れたぐらいで、人頼ってんじゃねぇよ。
 そんな自分の勝手な感情にもムカついて、余計に、引けなくなった。

「脱げ」
「手当てって傷じゃないって」
「見せろ」

 矢代は、今度は、はっきりと「うさんくさい」と思っているのを隠しもしないうろんな眼差しで黙り込んだ。
 この機会を逃したら、多分二度と、真実を知る機会は巡ってこないだろう。
 知ったからといってどうにもならない。でも、今逃がせば、きっと、のちのち見過ごしたことを後悔する。
 そう自分に言い訳をつけて、空いているベッドのカーテンをひいた。

「こっちへ、来い」

 多分、他の奴には見られたくない傷なんだろう。いつ誰が入ってくるかもわからない保健室で脱ぐのは難しかろうと配慮してやったのに、コイツは何を勘違いしたのか、人をケダモノかなにかを見るような眼差しで見上げてきた。
 バカ、そういう意味じゃねぇ!!
 
「ほら。脱げよ」

 そういうノリを期待してるなら、言ってやる。
 半ばヤケクソで開いた口が、──そのまま、止まった。


 ……緊縛痕。
 打撲痕。擦過痕。切創。咬傷。
 ──そして、夥しい数の、熱傷の痕跡。

 その瞬間に、世界から音が消えた。

 


 
 吐き気がするような、酷い虐待の痕跡に、何も感じなかったわけじゃない。
 縛られて、身動きができないようにされて、殴られ、蹴られ、切り付けられ。
 引き回され、煙草の火を押し付けられた痕跡が、腹が立つほど明瞭に、衣服に隠される部分にだけ散っていた。
 どうして、そんなにヘラヘラと笑っていられるんだ。
 なぜ、お前は、誰にも助けを求めない?
 まったくお門違いな怒りを、一番向けてはならない人間に覚えている自分と、それを、どこか冷静に眺めている自分。

 ……いや、本当は、そんなことも、どうでもよかったんだろう。
 艶かしい肉色に盛り上がった痕跡に、視線どころか、意識の全てを縫い付けられて、まったく動かせなくなった。
 ……傷口から垂れ流す蜜に、不用心に近づいたら、虫ピンで釘付けにされた。
 奇妙に静かな世界の中で、一瞬、脳裏に、花の蜜に溺れるコガネムシの姿が浮かんだ。


「……あのさあ、影山ぁ」


 どのくらい意識を飛ばしていたのか、自分でもわからない。
 その一言で急速に世界に音が戻ってきて、その瞬間に、自分の心臓が波打つ音が耳元で唸りを上げた。
 自分は何をした?
 傷を治療する、という口実で、こいつをベッドのカーテンの中に引き込んで。
 服を脱げ、と命令して、……消毒用脱脂綿を摘むピンセットにすら、手を伸ばさずに。
 視界の中に、薄いピンクの皮膚に包まれた突起を執拗に弄る指が──

 心臓は暴走しているのに、そのくせ全身から血の気は引いて、体中の骨も肉もどこかへ消えて、薄っぺらい皮膚だけが、固まって罅割れたプラスチックのように体を支えている。
 決して誰にも知られてはならない、と、親にも友人にもずっと隠してきたモノを、こんなにも簡単に晒してしまった。
 矢代の呆れた声を聞いても、その事実を実感できないまま、口だけが、意味のない一言を吐いた。
 
「わっ悪いっ……つい」

 つい、って何だ。
 俺は、こいつの心配をしていたんじゃなかったのか?

「傷とか、好きなのか?」

 矢代は、他人事なら笑うしかないほど、ド直球にそう尋ねてきた。
 この状況をどう言い訳して誤魔化すか、それだけしか考えていなかった俺は、その悪気のないたった一言で、引導を渡されたのを知った。

「んー?」
「……傷とゆうか……火傷跡とか……ケロイドが……」

 矢代の傷の理由はなんなのか、とか、治療が必要なんじゃないのか、とか。
 ……結局、そんなご立派な口実は全てウソッパチで、俺はただ、傷を隠しているクラスメイトの秘密を無理矢理に暴いて、その傷を間近で見て、触りたいだけの変態だった。

 ……俺は、お袋を救った親父とは違う。
 だから、最初から、こんな面倒事に首を突っ込むべきではなかったのだ。

「なーんだー、そういうことか~! 早く言いたまえよっ」

 バカみたいに明るい矢代の声が、顔を上げられないまま固まった頭にぶつかって弾けた。
 それが、人をバカにするような声色だったなら、俺はその日の太陽が完全に西の空に沈んでも、椅子に座り込んだまま動けなかっただろう。
 ──でもそれは、多分、なんの含みもなく、面白がっているだけの声で。

「……嫌、じゃないのか」
「嫌? なんで?」
「……普通、嫌がるもんだろう」
「……そーなの?」

 固まった蝋人形が溶けるような、緩慢な動きしかできない首を上に傾けると、そこには、心底不思議そうな顔の矢代がいた。
 その視界の端に、また薄桃色の艶かしく歪んだ傷が映っていて、その背の向こうに、カーテンの隙間から溢れた、白い光の網が広がっている。
 その姿が眩しくて、どこか、人間離れしていて、不意に、俺は自分が何を見ているのかを悟った。

 ──ああ、そうか。
 コイツは、蜉蝣なんだ。

 その言葉は、しんしんと、心の奥底に降り積もって溶けた。

 ヒトの姿をして、人間に紛れて暮らしてはいるが、毎夜、日が沈むと共に消えて、また朝日と共に生まれる命。
 だから、こんなに手酷い虐待を受けても、笑っていられるのだ。
 ……だから、俺の、この手がしたことにも、何も疑問を抱かないのだ。

 


 気がつけば、俺は、矢鱈に上機嫌な矢代の、「明日また来る」という言葉に頷いていた。
 矢代が保健室を去ってから、二時間以上も過ぎて、俺はようやく、自分があの傷について何も詮索しなかったことに気づいた。
 ……見てしまえば、訊かずにはいられないだろう、と思っていた。
 その結果、多分、俺は矢代から避けられるようになるのだろう、と。

 明日また来る、ということは、……また、あの傷を触らせてくれる、ということなのだろうか?

 

 その想像に、腹の底から血が湧き上がるような興奮を覚えて。
 俺は人影の消えた校舎の、暗い男子トイレの個室に駆け込んだ。